『李徳全』日本語版刊行によせて――石川 好
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二〇一四年一〇月上旬、旧知の中国人羅悠真氏から分厚い新聞のコピーを見せられた。それらは日中が国交正常化(一九七二年)する一八年も前の一九五四年一〇月三〇日の多くの全国紙であった。その見出しは、李徳全という中国紅十字会会長の訪日を伝えることなのだが、彼女が日中戦争の後、中国にとらわれていた一〇〇〇名余りのB・C級戦犯名簿を携え、これらの人々を速やかに帰国させたい、という内容であった。見せられた新聞の日付から数えて六〇年前に、そのようなことがあったことを知り、わたしはこの訪日団を詳しく理解したいと考え、戦後の日中関係史に係わる何冊もの書物を読んでみたのだが、ほとんど触れられていないことに驚いた。
どうしてこれほど重要なことが戦後の日中交流史で忘れられてしまったのか。そう考えわたしは世論を喚起すべく同年一〇月一六日の読売新聞「論点」に「日中交流の扉を開く―李徳全氏。一九五四年の訪日」と題し、次のような文章を書いた。
(中略)
この文章は、中国語に訳され、李徳全一行の中国側通訳として同行していた後に名日本語通訳と呼ばれる王効賢女史の目に触れることとなる。王効賢女史は六〇年前のこの訪日団を知る最後の人物なのであった。また、この文章がきっかけで日本において、李徳全女史の孫にあたる冒頭で述べた羅悠真氏らと共に山の上ホテルで、キリスト教関係者らを含む約七〇名が集い、ささやかなフォーラムを開催し、李徳全の功績を讃えた。
(中略)
こうしたことを北京大学の林振江教授が知ることとなり、中国社会科学院の文学研究所教授程麻氏にこの一件を話したところ、程教授は、日本人と中国人の共同作業として、二人で詳しく調べ書いてみようと決心され、二人は日本に来て、多くの資料を集め、中国においても、資料の乏しい李徳全の足跡を追い共著として完成したのが本書である。
今年(二〇一七年)は、日中が国交正常化して四十五周年の節目の年である。その記念すべき年に日中関係が正常化する十八年も前の秘話が日本と中国において出版される。何か歴史の因縁を感じさせるものがある。李徳全は、日中国交正常化が田中角栄と周恩来の手によって成される一九七二年九月三〇日、その五ヶ月前の四月二十三日に亡くなっている。李徳全は日中国交正常化のために「黄金のクサビ」を打ち込みながら、それを知ることもなく天に召されたのであった。……(以下略)