思い出すこと
はらだ おさむ
今年の4月、中国の各地で「見たくない光景」が頻発した。
かつて紅衛兵たちは「造反有理」と叫んだが、いまネット青年たちは「愛国無罪」と自らの行為を正当化しようとしている。その結末はだれが負うのであろうか。
89年6月、天安門事件は“鎮圧”されたが、その炎は世界の社会主義国に飛び火し、ベルリンの壁の崩壊からゴルバチョフの失脚にまで連動した。「和平演変」を警戒する江沢民政権は「愛国教育」を強化する一方で、国際的経済封鎖を突破するためその一番弱い環の日本に働きかけ、92年10月の「天皇訪中」に漕ぎつける(銭其琛元外相「回顧録」)。翌年2月、上海を訪れた鄧小平は出来上がったばかりの南浦大橋から浦東地区を見下ろしながら、上海の幹部に檄を飛ばす。上海の発展ここからはじまり、中国経済の大躍進がスタートする。
上海のバンドがライトアップされたのは、「天皇訪中」のときが最初であった。
この心憎い演出は、以後上海を訪問する観光客の心を捉えて離さないが、そのとき天皇一行をエスコートした関係者のひとりに、在りし日の衛紅さんがいた。彼女は94年の秋から大阪大学経済学部に研究生として留学していたが、95年1月、阪神・淡路大地震で下宿先が崩壊、帰らぬ人となった。家主の生島さんは「もう少し早く建て替えていたら、もしかしたら」と、毎年上海郊外にある彼女の墓前に詣でていたが、今年の命日は上海同済大学の寄宿舎で迎えた。彼女の遺志を継ぎ、“草の根”日中友好の灯火を燃やし続けるため、80歳からの中国語の学習の日々である。
今年の2月、大阪で春節を祝う「映画と講演のゆうべ」を主催した。
謝晋監督の「犬と女と刑老人」に、感動を新たにして女主人公の運命に涙する人も多かったが、30歳の上海からの研修生(男)はなぜ彼女がふるさとを離れ、乞食しながら流浪の日を送っているのかと、首をかしげていた。30余年前の文革は、上海の青年たちにとってはまったく理解のできない「歴史」になってしまっているのであった。「ワイルドスワン」の世界も、下放青年の冤罪再評価を迫る日本のドキュメンタリー「延安の娘」も、「文革を知らない世代」の中国の青年たちには無縁のものであった。
66年の秋、毛沢東の指示で街頭に躍り出た紅衛兵たちは、「四旧の打破」を叫んで「反帝路」(東交民巷)と名前を変えた界隈にある、西欧諸国の外交官街にも押しかけた。周恩来総理は荒れ狂う紅衛兵たちに語りかけ、治外法権下にある外交官街での違法行為は中国の外交関係にも悪影響を及ぼす一大事であることを説明、身を挺して彼らを説得したのである。
文革の10年は中国経済に壊滅的打撃を与え、「老百姓」たちの心にいまなお深い傷跡を残している。
今年4月の「反日」の結末は、最終的にだれが負うことになるのだろうか。
(2005年4月17日 記)