2006年2月8日(水)発行の『日本僑報』に掲載された段躍中先生の記事を拝読いたしました。
先生の率直な気持ちと切実な要望が、文脈に生き生きと反映されていました。段先生のお考えに共感した中国出身の方は、きっと多いはずです。
私の目に留まった記事の内容は、中国大使館主催の2006年華僑華人新春招待会において、王毅大使が挨拶している最中の会場内の雑音についてです。招待者が大使の発言を無視し、私語をしていたことが、「いまだに頭の中に響いています」とマナーの悪さを語る段氏。「華僑華人の為に、いろいろ実行していく改革方案について丁寧に説明した」ことについて、固唾を呑んでまで聞き入る必要はないと思いますが、「少しでも挨拶する人に敬意を込めて聞いてほしい」という忠告には、私も全く同感です。
また春節にあたる1月29日、銀座で行なわれた「春節団拝会」に、私が参加した時の出来事。司会を担当されたの明治大学の陳洲挙先生は、上述と同様の局面に遭遇しました。陳先生は、NHK中国語講座の講師を長年勤め、人を惹きつける授業展開に多くのファンを持つ方。元々美声の持ち主で、マイクを使用せず、ユニークな司会進行を心がける先生の話術に、その場に居た私は、参加者のまなざしが陳先生に引き込まれていくのを感じました。と思ったのもつかの間、各々が自分たちの話に花を咲かせ、その一つ一つの花は騒音と化していったのです。一方、陳先生は、決して動揺せず、終始笑顔で司会を続行。私は、その忍耐力に敬服しました。「懇親会」ならば、自己紹介は欠かせないもの。結局、仲間うちだけで会話をはずませ、ちょうど満腹になったところで会がお開きとなり解散。それでは、何ら収穫は得られないのでは。
華僑、華人の集会で「同じ民族同士、遠慮など必要ない」などとは、とんだ勘違いです。マナーは世界共通であることを忘れてはなりません。「いや、私語するのは中国人だけではない」と反論されるかもしれません。確かに中国人に限ったことではないでしょう。しかし、それを美化するのは、中国人のみの使命として「国民性」にまで結びつけ、中国人を否定する道具にもされかねません。二年後にひかえたオリンピック開催国である中国の国民が、嘲笑されて欲しくありません。
中華民族が、世界のいたるところに根を下ろしているのは、「知恵」、「勤勉」そして、その地域に溶け込もうと「共存」を求める「柔軟性」によるものだと思います。私自身、年末年始に複数の会に出席しました。その中には、本務校での同僚との会、また生涯学習を楽しむ社会経験豊富な私よりも人生の年輪を幾重にも重ねた受講生との会、日中友好協会、人権団体など民間団体主催の会・・・、日本人が主体、あるいは韓国人、中国人が主体の集まり、また多国籍の人々の集まりなど様々です。
歓談の時、楽しくステージに立ち、その場を盛り上げる方もいれば、人前で話すのは苦手と、皆の楽しむ様子を座席で満喫している方など、参加の仕方は人様々。いずれの会も終始和やかな雰囲気に包まれ、発言者、司会者の存在を尊重し、その音量を打ち消す参加者はいませんでした。ひとつ言えることは、参加者は皆マナーを守って同じ時間を共有したということです。
「習慣なのだから、理解して欲しい」と、相手の寛容な心ばかりを求めるのではなく、自分自身が「礼儀」を具えてこそ、心のキャッチボールができるのではないでしょうか。私は、古語にある「曾子曰、吾日三省吾身、爲人謀而不忠乎、與朋友交言而不信乎、傳不習乎。(曾子曰わく、吾れ日に三たび吾が身を省る。人の爲めに謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを傳うるか。」(『論語』)こそが、中国人本来の民族性であると理解しています。
■邢志強先生の著書への敬意■
日中関係が冷え込んでいる今、友好を修復することは、大多数の両国民にとって共通の願いであると信じています。人為的に相手の文化を軽視、侮蔑し、自国の優越性のみを強調するならば、両国の真の友好は望めません。とはいえ現実として、在日中国人の犯罪、昨年春の理性的とは言えない出来事などの発生で「嫌中者」が増えたことに、日本を第二の祖国と考える私たち華人、華僑は心を痛めています。こうした情勢の中、邢志強先生はまさに「親者痛、讐者快」の局面を、一日も早く解消したいと願っているだけでなく、自らペンを執り優れた分析力で読者にメッセージを発信されたことを高く評価すると同時に、中国人留学生の歴史に重要な足跡を残すことができたと思われます。小生も微力ながら、ゼミの学生、生涯学習受講生の皆さんと共にホームページを開設し、日本語、中国語によって各々の文化について紹介する場を設け、「草の根」による日中両国の文化交流を進める活動をスタートさせました。まだまだ小さな活動ではありますが、私の母国である中国と愛する日本が、互いに良きパートナーと思える日が到来するよう、少しずつでも前進させてゆきたいと考えています。
于保田