中国ビジネスえとせとら(85)人民元のことなど/はらだ おさむ |
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わたしがはじめて中国を訪問したのは、東京オリンピックの年、1964年の2月であった。
当時の日本は固定相場制で1ドル=360円、海外渡航の持ち出し外貨は500ドルしかなかった。
一年がかりの電報商談で、毛羽たきの輸入総代理店契約は基本的に合意できていたが、国交未回復の中国への渡航は日本政府未承認の、いわば密航に類するものであったから、行けば出来るだけ長期滞在して輸出や他の輸入商談の調査や交渉もしてみたいという思いがあった。
寅さんスタイルではないが、わたしの腹巻には餞別にもらった一万円札の束が密かに忍び込まれていた。これで何ヶ月中国に滞在できるかわからなかったが、羽田からはじめて飛行機に乗り、中国への入国手続きなどで数日を香港で過ごしたあと、羅湖―深圳の境界に流れる幅数メートルの川に架けられた板橋を歩いて中国へ入ったのであった。
そのとき中国の人民元は、1元=135日本円の固定相場(いまの約10倍)、
無借金の世界一強い通貨という、触れ込みであった。米ドル換算では1ドル=2.7元ということになる(12月11日現在では、1米ドル=7.8377元)。
借金の勧め
76年10月の「四人組」逮捕による文革終焉から、79年末の対外開放政策の
実施に至るまでの過程で、中国は外貨不足からプラントなどの輸入契約を二度もキャンセルしている。わたしも当時在籍の貿易会社で数億円の自動車部品のプラント契約をキャンセルされ、立ち往生した。
中国外貨管理局の資料によると、80年末の中国の外貨準備高はゼロ、81年でも27億米ドルに過ぎなかった。
わたしは85年1月 上海における日系製造業の第一号合弁契約に調印をしているが、そのときお世話になった上海市の外事弁公室のZ副主任と会食、上海の再開発のため「借金の勧め」をつぎのように話したのであった。
「・・・対外開放政策で外資を導入するにはまずインフラを整備しなければならない、借金をしなさい、外国から起債しなさい、と開発のための借金を勧めた。『社会主義中国』で青春時代を送り、『文革』で苦しい生活を強いられたZさんは、中国は借金をしたことがない、貸してくれる国があるだろうか、返済できるだろうか、と心配げな面持ちであったが、わたしは大阪の南港の埋め立て工事や千里ニュー-タウンの開発、神戸の『山から海へ』の開発政策によるポートアイランドや六甲アイランドの埋め立て、新神戸トンネルの開通など地方自治体の開発資金のほとんどはドイツのマルク債で賄われ、開発事業で得た税収などは自治体の財政を潤している、その上日本の国力(経済力)が強まるにつれ、為替面で円高基調となり借金の返済も負担になっていない、と強調した」
(本紙2003年11月号掲載小論)。
天安門事件のあと中国が上海・浦東の対外開放を宣言したとき、ある日本企業の駐在員は、またまた中国は大風呂敷を広げてと冷笑したが、南浦大橋の建設にはドイツと日本のODAの借款を利用していた。
「一国二通貨」
中国は80年から93年末まで外貨管理のため「外貨兌換券」を発行、「一国二通貨」制度を採用した。香港やマカオ返還に伴う「一国二制度」に通じる政策であるが、こうした発想は中国経済の深層でいまなお未解決の「一国二戸籍」に起因するものなのだろうか、新しい政策実施の「試行」や「開発区」の成立・拡大のプロセスなどとも類似の現象といえるのかもしれない。
FECと通称されたこの紙幣は人民元と「同価値」とみなされたが、外国人に使用を強要された「見返り」として、高級品の購入や高付加価値のサービスの提供があり、それを求める実需が「闇マーケット」を生み出し、ときには人民元と数パーセントから二桁の利ザヤを生んで、外国人の出入りするホテルや商店の前などには闇の両替屋がたむろしていた。
合弁企業にも契約で輸出比率が明示され、外貨を稼ぐことが至上命令となっていた。
一方外貨の割り当てをもらえない中小メーカへ、人民元で商品を提供する香港などの貿易業者が現れ、それとタイアップした日本のスーツケースマーチャントもいた。縫製工場で技術指導に当たっていた日本人のアドバイザーが、必要に迫られて部品や機材を提供(密輸)、人民元で支払いを受けたケースも多い。
93年12月29日の夜、中央テレビは94年1月1日からの外貨兌換券の廃止を告げた。朱鎔基総理の英断であったが、利ザヤ稼ぎにと兌換券を溜め込んでいた人たちは一瞬にして打ち出の小槌をホゴにしてしまったのであった。
このとき中国の外貨準備高は、まだ200億ドルに達していない。
世界の工場
統計によると93年末の中国の対外債務は835億米ドルに達している。
外貨準備高のおよそ4倍強の水準で、97年に対外債務が外貨準備高に拮抗するまで、直接投資とあわせて中国へ外資の流入は拡大の一途をたどる。
94年の外貨兌換券の廃止により、人民元が公定レートの5.76米ドルから市場レートの8.62米ドルへと実質的に50%近く切り下げられたこと、その後昨年まで米ドルにほとんど同水準でフィックスしていたことが有利に作用している。
97年7月1日の香港返還の翌日からはじまったアジア通貨危機は、香港と中国が為替レートを持ちこたえてその嵐を潜り抜けたが、それは資本市場を開放していない事情に加え、朱鎔基首相など指導者の断固たる決断力によるものであった。
中国の投資環境は積極的な外債の利用で整備され、豊富な労働力と有利な為替レートは世界の工場として脚光を浴びた。
外資の直接投資と貿易の黒字増大で、中国の外貨準備高は96年に1,000億米ドルの大台に達し、01年には2,121億米ドルと倍増、04年6,099億米ドル、昨年末には8,189億米ドルに達し、本年上半期(6月末)は9,411億米ドル(外債残高2,979億米ドル)、10月末には1兆米ドルと遂に日本を抜いて、世界のトップに躍り出た。有史来はじめてみるその躍進ぶりである。
人民元のこれから
2000年以降の外貨準備高の急増には、人民元切り上げ圧力に対抗して実施された中国人民銀行(中央銀行)の買い支えもその一因となっており、その介入資金による過剰流動性の発生で一部バブル経済の現象がみられるようになった。
昨年(05年)7月22日 中国はこれまでの米ドル単一通貨への実質ぺッグ制から、「通貨バスケット制」を参考に為替レートを決定するシステムに変更、対米ドルレートを、8.2765元から約2%切り上げ8.11元とした。
06年1月4日から銀行間の相対取引制度も導入され、比較的穏やかな動きが続いていたが、11月10日には対昨年切り上げ時比5%台の動きを示し、12月9日にはこれまでの最高値7.8231元(5.8%切り上げ)をつけている。
以下は竹内 健氏(東京三菱UFJ銀行元上海支店長)の講演資料(11月25日「日中なにわ塾」)へのコメントである。
中国の外貨管理の基本政策は、たまりすぎた外貨をいかに有用に減らすかということにある。したがって、外貨の流入、外貨から人民元への両替は規制を強化し、逆に外貨の流出、人民元から外貨への両替は規制を緩和することになる。
卑近な例として、個人の海外渡航には03年8月末までは2,000ドルの外貨しか持ち出しできなかったが、同年9月からは5,000ドルへと2.5倍増となり、昨今では20,000ドルにまで拡大されている(世界各地で中国観光客の誘致合戦)。
中国企業の海外投資も奨励され、世界の資源漁りが続き、M&A(IBMほか)も脚光を浴びている。
竹内さんは、人民元切り上げの日本企業への影響とその対応策を以下のように説明しておられる。
1)各ビジネス形態への影響
ケース①:日本から中国取引先に製品を販売
⇒輸入品価格の低下(プラス要因)
ケース②:日本から中国現地法人に部材を輸出し、加工後製品を再輸出
⇒基本的には中立。但し、人件費など現地コストが対ドル比上昇し一部コストアップ
ケース③:日本から中国現地法人に部材を輸出し、製品を中国国内で販売
⇒輸入部材の輸入価格が下がり、価格競争力が上昇(プラス要因)
ケース④:日本企業の中国現地法人が原材料を中国で調達し、製品を海外へ輸出
⇒原材料コスト及び人件費などが上昇し、輸出競争力減少(マイナス要因)
⇒中国からの輸入品価格の上昇(06/6 対前年比4.2%上昇)
2)今後の人民元切り上げへの対応
①ポートフォリオ調整によるリスクヘッジ
⇒外貨資産と人民元負債を減らし、外貨負債と人民元資産を増やす
・現法の手元資金を出来るだけ人民元で保有、外貨建て資産の圧縮
・輸出債権の早期回収:親子間の場合は支払い期間の短縮
②為替予約取引の活用
いかがであろうか、人民元の切り上げはドラスティックには起こらないだろうが、ゆるやかに、しかし、2年間では10%以上の切り上げはコストに織り込んでおく必要があろう。
日本がIMF8条国になったのは東京五輪の1964年、為替取引の自由化はそれから16年後の1980年であった。
中国が8条国になったのは1996年でまだ10年しか経っていない。
しかしWTO加盟からすでに5年が経過し、いよいよ来年から中資銀行と在中国の外資銀行との本格的競争が展開される。
そのうえイラクをはじめとする中東政策の行き詰まりで、これからドルの凋落が続くことになるだろう。
日本同様、外貨準備高の大半を米国債にあてている中国の金融政策は、これからの人民元レートの動きにも微妙な作用を及ぼすのではないだろうか。
手放しでは喜べない、中国の世界一の外貨保有高である。
(2006年12月11日 記)
by duanjp | 2006-12-27 14:19 |
日中公論 |
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