「一国二戸籍」のツケは いま・・・
はらだ おさむ
「一国両制」は中国の国是である。
鉄の宰相サッチャーと香港の返還交渉の場で鄧小平が唱えたこの構想は、すでに香港、マカオで実施されている。いま台湾をめぐって第三次の「国共合作」などかとかまびすしい報道もあるが、80年代から90年代にかけては「一国二通貨」という世界に類を見ない外貨兌換券(FEC)の発行を実施したこともある中国のことだから、この「一国両制」も融通無碍な中国人ならではの発想といえるだろう。
しかし、これよりも古くから中国に導入され、いまなお厳然として中国社会に残り、問題を投げかけている「両制」がある。いまではその存在が、そのもたらす影響で明らかになってきた農業戸籍、「一国二戸籍」のことである。
そのとき
中国の戸籍制度の基本形は、1951年の「都市戸籍管理暫定条例」と1953年の「口糧制度」をふまえて実施された、1958年の「戸籍管理条例」にさかのぼる。すでに半世紀におよぶ歴史がある。
この間、共和国成立直後の朝鮮戦争、商工業者の「社会主義改造」を目指す
「三反・五反運動」、58年からの「大躍進」と2千万人以上の餓死者を出した
経済失調~59年の毛沢東の国家主席辞任、「アリ一匹も入る隙間のない」包囲網を打ち破るため紅衛兵を煽動した「造反有理」の「文化大革命」、「四人組」逮捕による10年に及ぶ不毛の政治運動の終焉と、そして、いまにつながる79年からの改革開放の歴史である。
80年代の初めでも都市では食糧切符(糧票=リャンピャオ)による配給制度が維持され、農民の都市への流入は厳しく制限されていた。
「下放青年」たちの里帰りが上海などの都市で「社会問題」となり、働き口を提供するために母親たちの早期退職を奨励・祝賀する街宣車の銅鑼や太鼓に驚いて、ホテルの窓を開けたのも昨日の出来事のように思い出す。
そうだ、町の食堂にはじめて入ったとき「糧票」の提出を求められ、「没有」というわたしに、見知らぬ市民が無言でそれを提供してくれたことがあった。大勢の人に見つめられて食べた「小籠包子」の、あの熱かったこと・・・。
そのころは職業選択の自由もなく、お上の「分配」で夫婦が離れて暮らすケースも多く、春節などには牽牛織女よろしくたまさかの逢瀬を楽しむのであった。このころの遺物が休暇制度、列車による往復の日数プラス2週間の有給休暇と旅費の支給があり、90年代の半ばでもある上海の日系企業では東北出身の社員からこの制度の適用を求められたことがある、という。飛行機で行けば公休の一週間で十分じゃないかと日本人の総経理は拒否したが、この制度、公的にはまだお蔵入りにはなっていないのである。
蛙の子はカエル?
この戸籍制度は、単的にいえば都市のスラム化を防ぎ、都市住民に食糧供給を保証するために農業戸籍と非農業戸籍=都市戸籍に峻別したものであるが、移動の自由は制限され、農民は与えられた土地も「人民公社」化の流れのなかで「公有」されて農民への差別が深まる。母親が「農業戸籍」なら、父親が「都市戸籍」であっても、その子の戸籍は「農民」とされ、農民が「都市戸籍」を取得するには90年代の半ばまで、志願して軍隊で将校になるか、「科挙」のごとき万に一以下の確率の、成績抜群の大学生になるほかに道はなかった。
「文革」後、香港へあるいはビルマ(ヤンゴン)北部のチャイナタウン~マンダレーへと国境を越えて「亡命」した「下放青年」たちの一部がいま現地で実業家として頑張っているが、そのまま辺境の地で過ごしている人も多い。
わたしの上海の友人は娘さんが高校生の夏、自分が同年齢のとき下放した農村に連れて行き、現地にとどまって農民として働いている「戦友」とその子供(農業戸籍)を紹介、「自分史」を語りながら娘さんにいまの幸せを独り占めにしてはいけないと教え、諭したという。これは稀に聞く話である。
いまの上海は義務教育、医療・年金などの福利は充実していて中進国並みの生活環境にあるが、上海の人は「外地人」には排他的であり、冷たい。同じ中国人でありながらなぜ上海人は「一等公民」なのか、外地人-農民はなぜ同じ権利を享受できなくなったのか。外地人を「二等公民」と蔑視するなら、上海人は鼻持ちならぬ「井の中の蛙」ではないか。
一昨年秋、SARSのあと久しぶりに上海郊外の観光地―周庄を訪れた。
運河にいくつもの太鼓橋がかかり、河畔の緑が映えて絶好のシャッターチャンスである。そのとき物売りの老婆が通りかかったのを見て、地元の女性が「外地人 出去!」とさげすみの声をあげて追い払った。あぜんとしたわたしは、逆にこの女性をにらみつけたのであるが、何様と思っているのだ、ちょっとぐらい有名な観光地になったからといって、老婆を他所者扱いして追いたてることはないであろうに、と口惜しくなった。天狗になるのもいい加減にしろ、と大声が出そうになった。
周庄の景色が映えこの地が豊かになろうとも、この河の濁水はいつになっても澄むことはないだろう。
戸籍 一元化への実験
改革開放の進捗につれ、深圳をはじめとする広州南部に“打工妹”の「民工潮」が押し寄せる。90年代に入ると上海周辺の工事現場には外地人労働者があふれ、北京では出身地ごとのスラム街が出現した。
2000年の人口センサスによれば、戸籍地を6ヶ月以上はなれて他地域で暮らす流動人口は1億2千万人とカウントされており、春節に沿海部から内陸部に移動する人の波は4千万人以上と増加の一途をたどっている。
桃山学院大学の厳 善平教授の調査によると(「上海経済交流」No.78所載『大上海の繁栄と民工』)、88年の上海における外地からの流動人口は106万人(上海市民の8.4%、うち農民戸籍47.6%)であったが、15年後の03年では、市民の37.2%の499万人(農民戸籍80%)と増加している。かれらは上海「市民」とみなされない“暫住”者であるが、すでに3人に1人以上が上海語を話さない「住民」として暮らしているのである。
郊外の嘉定区でみると第三次産業―ホテル、食堂からマッサージ、カラオケに至るまで従業員は外地人で占められており、あるホテルの足マッサージ室では、30代後半の北京出身の女性マネジャーが河北省、安徽省、ハルピン出身の20歳前後の従業員を取り仕切っていた。厳教授によると20代、30代が外来人口の63.9%を占めているという(前掲書)。同地の日系企業でも人件費抑制のため製造現場に民工を採用、上海語が通じないため職場は静かになったという。
しかし、かれらは「市民」ではない。
上海市の福利から教育に至るまで、すべては「市民」のためのものであり、北京戸籍である日本留学組の日系企業幹部にもその恩恵は与えられていない。
90年代はじめから上海では「藍色戸籍」制度を採用、上海に有用な人材とか
上海の売れ残った高級マンション購入者には「上海戸籍」を付与してきたが、その労働行政では「若年民工採用には、上海人の中高年待業者、失業者を一定割合で採用する」ことを外資企業にも要請してきた。このバイ・シャンハイ政策のため、民工たちの職場は限定され、3K職場や第三次産業から富裕家庭の乳母、召使などの個人雇用などでは「必要な人材」と認めているが、「住民」であっても「市民」としては認めない。
上海の行政区域である郊外住民も、かっては「農業戸籍」者であった。
農村地帯の「都市化」で上海の郊外には「県」がなくなり、かれらはすべて「非農業戸籍」者になったが、他市に嫁いだ娘(農業戸籍)の子供(孫)にも最近「都市戸籍」が与えられることになり、祖父母たちは一安心の態だとか。
中国の戸籍制度の改革は、この「都市化」と不即不離の関係にある。
2001年から、全国のすべての「鎮と県クラスの市区の範囲」において、農民戸籍から非農民戸籍へ移籍する「人数の制限」は撤廃されたが、農村の都市化が「戸籍一元化」への道である、としている。
この数年、広東、福建、江蘇、浙江などの南部と山東、河南、河北、四川などの省でも戸籍制度改革の「実験」措置が講じられはじめている。
河北省石家荘市では「農民合同工」(郊外の農村から市内に出稼ぎに来ている契約労働者)の移籍を認め、36万人の「民工」が石家荘市の「都市戸籍」を取得した。『人民中国』はこのときの状況を次のように紹介している。
「2002年の夏休み、康計紅さんは12歳になる息子を連れて石家荘市の第六中学校に出頭したが、これまでのように『借読費』を納めることをしないでもよかった。『借読費』とは、農業戸籍の子供が都市の学校に通うときに納めなければならない費用である。康さんの故郷は河北省の農村だが、省都の石家荘市の会社に10数年働いてきて、今回、奥さんと子供と自分の戸籍を、農村から石家荘市に移すことができたのである」
雑貨の一大集散地で有名な浙江省義烏市大陳鎮では、2001年12月、貴州、江蘇、安徽など出身の7名の「外地人」が地元の人大(議会)代表に選出された。「民工」の選挙権と被選挙権が実施されたはじめてのケースである。
また、2002年の「全人代」(国会)では、広東省の陳麗トン代表が提案者となり、正式に『公民の移住の自由の権利を早期に憲法修正案に書き込む提案』を議題として提出するなど、「戸籍一元化」は識者の間で活発に論じられ始められている。しかし、中国人民公安大学治安学部王太元教授が述べるように、移動の自由だけなら5年以内にでも実現は可能だろうが、教育を受け、就業のチャンスがあり、社会保障を享受できるレベルに受け入れ側と移動する人自身の適応能力が達成できるかといえば、かなりの時間を要するだろうというのが衆目の一致するところである(『人民中国』、『チャイナネット』ほかなどよりまとめ)。
都市流民 第二世代
「南方周末」(04.12.2)によると、流動人口の5~7%がその第二世代と見られているから、その数は700~800万人と推定されるだろう。そのなかで義務教育の要就学児童がどのくらいの数になるのか算定する資料もないが、それよりもなによりも、中国で国が「義務教育法」を制定したのがまだ20年前の86年7月であり、教師の報酬や教材などが地元や親の負担になっていることを頭に入れておく必要がある。日本でも中国の僻地の小学校に「希望工程」を支援するキャンペーンが続いており、張芸謀監督の映画「あの子を探して」(ヤラセくさいと個人的に思っている)がその間の事情を紹介する。出身地にあっても子供を満足に通学させえない「民工」たちが、出稼ぎ先で子供を就学させるのは至難のことであるが、子供の将来を考え、読み書きのできない「文盲」だけにはさせられないと、就学の道を探すのである。公立学校では民工たちの子弟の入学には「借読費」ほかの追加費用が必要であり、陰日向なき“差別”と“イジメ”もある。北京などでは民工たちが自立の、無認可の「民工子弟学校」を設立しているが、その運営をめぐって生じたさまざまなドラマがいま日本で放映され、関心を呼んでいる(肝心の中国では「街道消息」でささやかれられるだけである)。
『南方周末』は、都市流民の第二世代を「農村へ帰ることも、都会でうまく住むこともできないかれらは急速にルンペン化しており、『自分たちは社会から排斥され、除け者にされている』と考えている」と報じている。
4月16日の、上海の「反日デモ」の現場で、籠いっぱいのナマタマゴを配っている青年の姿があった。おそらくスポンサーつきであろうが、昨年の3月「映画にみる 中国のいま」で紹介した、銀行強盗を演じるデスペレートな主人公の姿とラップした(賈樟柯監督『青い稲妻』)。この主題歌「任逍遥」は、そのまま「逍遥に任せる」―ケセラセラの意であるが、♪苦しんでもいい 疲れてもいい 風 天地翔け 全ては流れるままに♪と歌うのである。
上海の繁栄は、こうした民工たちの汗と悲哀で築かれている。
(2005年5月1日 記)
「日本ミシンタイムス」より転載