本書は思いがけない展開で生まれた。二〇〇六年春、「氷点」停刊事件が新聞に報じられるようになって、その続報を読んでゆくと、どうも近代史記述をめぐる論争、それも自分の専門の義和団事件が原因だということが明らかになった。それでは是非とも文章を入手して読まなければと思い、中国の友人にネットで探してもらって袁偉時と張海鵬の文章を読んだ。読んでみると、やはり学術的紹介の必要もあるだろうと思い、事件と論争に一応の脈絡をつけた一文を書いて、かつて義和団評価論争を紹介した『中国研究月報』に投稿した。私には珍しい時局的文章だが、その審査中に、李大同の顛末記が間もなく日本で出版されるという記事が出た。日本僑報社に問い合わせると、納本されたばかりだという。それで急遽出版社に立ち寄り、電車の中で一読、急いで修正加筆し、文章は六月末に掲載になった。それから間もなく、大学に、日本僑報社の段躍中氏からメイルが来て、拙文を中心にまとめて本を出しませんか、と言う。私の文章にジャーナリズムが反応するなどということは無いのだが、袁偉時文集と『氷点故事』訳本も出すので、四部作にしたいという。一九八〇年の義和団評価論争以来の因縁もあるし、この際、この評価論争に全般的な評論を加えてみるのも、ある意味ではいい機会かもしれないと考え、引き受けた。
夏の少しの時間を使って歴史教科書を調べたり、第二次アヘン戦争について少し勉強したりして、整理してまとめてみた。いくつか新たに判明したこともあり、少しは収穫があった。それら諸点や論争点を本書のようにまとめた私の歴史論、理論は、大体は大学の講義で話している内容で、ことさら新しいものではない。義和団に関した議論はほとんど拙著等の中で述べている論を踏まえたものである。
この論争の本質は、昔からなされてきた、中国は「全盤西化」=全面的西洋化すべきか、それとも「国粋」を保つべきか、という議論に収斂する。その論争の一バージョンであると言って良い。だから、袁の議論はことさら新しくはないのである。ただ歴史教科書を問題にした点はユニークで、知ってか知らずか、江沢民の「愛国主義教育」への批判になっていて、媒体も絶妙なものだったから、反響が大きかった。それと、言論の自由、学術の自由の問題とも絡んで、一大事件化したのである。後者は私自身の問題とも関係した。
実は、拙著の中国語版出版の作業が進行中なのだが、拙著はその結論部分で、中国のキリスト教会は、一九四九年の中国革命、文化大革命という第二、第三の「義和団経験」をすることになった、と書いて、義和団と文革が類似していることを指摘している。この点に限れば、王致中や袁偉時と共通した認識なのだが、ここら辺りが出版のネックになりそうなのである。私の見解が二人とは違うことは本書でもお分かりになるだろうが、さてその「閲評」の結果がどう出るかは、やはり中国における学術自由の試金石の一つにはなるだろう。
重要なのは、「義和団」のような歴史現象が中国史において何度も現れる「現実」をどのように捕まえるかであって、否定して済ますことではない。かつて七〇年代に大学院で勉強していた頃、西順蔵先生や増淵龍夫先生と話をしていて、こういう奇妙な現象(義和団とか白蓮教)が出てくる奥に蠢くものが中国にはあるのだ、という把握が印象的だった。李大釗や魯迅には薄っぺらな近代主義者でない思想的原質がある、章炳麟や康有為、毛公だってそうだ、そうしたものをどう捕まえるかが大事だ、という話を真に受けて勉強したものだから、安丸良夫氏の民衆思想研究や、近代と遭遇した世界各地で起きた千年王国的な宗教反乱に関心を持ち、数周遅れのランナーとして中国の民衆宗教や思想の世界を彷徨したのである。最近の若い世代の研究者は、中国の持つこうした思想原質、そんなものは迷信とか非合理なものだというだろうが、には余り知的な関心は無いらしい。それは時代の問題なのかもしれないが、伝統社会も農業も農村社会も儒佛道も、余り生活実感の無い世代として、想像力が及ばない「近代」というものを知ろうとするなら、積極的に社会人類学や民族学に学んだらいいと思うが、そうでもないらしい。近代の合理的側面ばかりだ。同じようにグローバリズム賛成の袁偉時は、反近代や近代の陰画は否定すべきだと斬って捨てるのだが、それを中国の新しい歴史認識と見なす櫻井よしこの評のようなものもあるが、本書で述べたように、決して新しいものではないのである。それは、歴史教科書は国家意思を体現したものだという見解に対する彼の応答が、一九一五年に政治学者高一函が書いた文章、つまり新文化運動の啓蒙期の政治学者が書いた西欧近代国家論を引き合いに出してきてそれを否定することに良く示されている。そこには国民革命の国家論や人民共和国の国家論の歴史的経験、現政権の統治行為への視点など、「歴史的現実」への重い思索はないのである。
私は、近代資本主義の市場経済の暴力こそが、人間が制御しなければならない最大の破壊力だと考える。無限に肥大化する欲望と営利のための人間破壊と社会破壊、環境破壊、それをどのように制御するかをめぐって、人類は悩み苦しみ、試行錯誤を繰り返してきているのだと思う。だが、このグローバリズムは完全に否定しきれないものでもある。グローバリズムはプロテスタンティズムに似ている。自分に似せて世界を作ろうとする。近代世界形成にプロテスタンティズムが果たした歴史的役割、伝統主義破壊の革命性は認めるものの、その後のプロテスタンテイズム(国家)が世界史上で行なってきたことを考えると、それは過度の一元性原理の制御装置を持たない宗教思想ではないのか、ブレーキのない自動車、制御棒のない原子炉ではないのかと、この頃考えるようになった。その意味で歴史は、反近代を考え、プロテスタンティズムをも相対化することを求めているのであろう。
この歴史教科書論争が、「紅い資本主義」(「初級社会主義」)政権護教論とグローバリズム受容全盤西洋化論の二元構造を脱して、矛盾に満ち多様で豊富だった中国近現代の歴史のより豊かな捉え返しに発展することを希望するが、それは今後の中国人自身の課題であろう。しかし、拙い評論でお分かりになったように、中国のこの歴史教科書論争はかなり真剣味がある。日本の歴史教科書をめぐる論争もこれくらい真剣味があるといいと思うが、日本人の論争はだめだろう。論争が下手で、勝ち負けのみならず、何がそこから生まれるかという姿勢がないからではないか。これから日中共通の歴史認識形成を模索して、中国側と論争しつつ共同研究をやるのだろうが、中国の論争はこのようになかなかしたたかなのである。
本書が今日の中国の歴史意識や歴史教育のあり方、言論状況や文化状況の理解に少しでも役に立ち、日本と中国の共通の理解のために資するところがあれば幸いである。
最後に、よき機会を与えてくださった段躍中氏に感謝申し上げたい。
二〇〇六年一二月八日 比企寓にて 佐 藤 公 彦