9月21日~25日、朝日新聞東京版が【池袋 新華人が集う街】を連載しました。ありがとうございます。
【池袋 新華人が集う街】
混在する異国 都心彩る
2009年09月21日
池袋駅北口すぐの中国物産店「陽光城」。24時間、年中無休で営業している=豊島区西池袋1丁目、高橋雄大撮影
5人のイケメン美容師(後列)がそろう「髪藝坊」。周ピーターさん(後列中)と単一さん(後列左から2番目)が共同経営する
◆scene1 DEEP CHINA
「ニー・シエン・ツァイ・ツァイ・ナ・アー? ウォー・ツァイ・ベイ・コウ・トン・ニー(いまどこにいるの? 北口で待っているよ)」
池袋駅地下街から北口の階段を上がると、若い女性が携帯電話で話している声が耳に飛び込んできた。あちこちで中国語が飛び交う。
10メートルほど先のビル入り口に黒いポロシャツ姿の中年男性が座っている。一見あやしげな雰囲気だ。何を売っているのか聞いてみると、男は黙って「国際電話カード」の見本を指さす。それ以上日本語は通じない。中国語で尋ねると、意外と気さくに価格や通話時間を説明してくれた。
その先の入り口から、4階の中国系の食堂へ。外に出ていたメニューは日本のふつうの中華料理店にはないものばかり。中へ入ると、独特の香辛料のにおいがぷうんと広がる。カウンターには牛の胃や鶏の足の煮物が並んでいた。
日本語学校の友人と来ていた浅草在住の黒竜江省出身の女性(19)は「中国人の作る中国の味が食べられるから、週に2回は来る」。10人ほどいた客はみな中国人だ。
ここは日本? 中国にいるような感覚になった。
◇
周辺を注意して歩くと、雑居ビルの上階や地階に多くの中国系店舗が見つかる。
ビルの2階。「髪藝坊(ファー・イー・ファン)」のドアを開けると、イケメンの中国人美容師5人が迎えてくれた。みんな日本語はあまり得意でない。客もほとんどが中国人だ。シャンプーとブローを頼むと、アシスタントの中国人女性が通訳し、経営者のひとり、北京出身の単一(シャン・イー)さん(27)が仕上げてくれた。
共同経営者の周(チョウ)ピーターさん(36)も北京出身。もともと美容師だった2人は就学生として来日、05年にこの店を開いた。周さんは中国では、俳優の髪形を作るなど雑誌にも紹介され、美容師養成セミナーが大人気という「カリスマ」美容師。この日も夜まで予約がいっぱいだった。
池袋には、いまの元気な中国がある。中国の改革開放政策で海外留学が緩和されたのを機に、80年代半ば以降に来日した「新華人」が、比較的家賃の安い北口周辺に集まった。バブル崩壊後、賃料の下がったビルで華人向けの商売が始まり、店が増えた。
中国語ばかりが聞こえる。商習慣も違う。いきおい、日本人が足を踏み入れるのを躊躇(ちゅう・ちょ)する雰囲気の場所も少なくない。
その雑居ビルもそうだった。入り口が狭くて暗い。ためらいつつ入ってみると、中国系店舗があるわあるわ。不動産屋、美容院、旅行会社、洋服販売、コンピューター販売など20店以上が、二十数平方メートルの部屋でそれぞれ営業していた。
狭い廊下に「租房(ツー・ファン)(部屋貸します)」の張り紙があった。不動産屋の「第一ホーム」。天津出身の黄天舒(ホワン・ティエン・シュー)さん(38)が日本語でにこやかに対応してくれた。日本語学校で学ぶ就学生として来日、大学に進んだ後に不動産屋に勤め、3年前に独立した。
「客の9割は中国人。でも中国人に部屋を貸すのを嫌がる人は多い。言葉と生活習慣に不安があるみたいね」
◇
あやしげに見えたこのビル。実は多くの新華人がビジネスの第一歩を踏み出した場所だった。中国物産店「陽光城(ヤン・コワン・チョン)」も、89年にここからスタートした。いまでは5階建ての自社ビルに赤と黄の派手な看板をかかげ、北口周辺の中国系店舗の象徴的な存在だ。
同店が扱うのは黒酢や紹興酒、調味料など約1200種。唐辛子やあめ色に煮た豚の耳や足などの商品が歩道にはみ出さんばかりに並び、雰囲気は中国そのものだ。
最近は、客の1~2割は日本人。中国で暮らしたことのある日本人も、本場の食材を買いに来るという。
裏の狭い階段を通って2階の食堂に上がると、メニューに豆乳と油条(ユー・ティアオ)(揚げパン)があった。中国の典型的な朝食だ。「手作りだよ。2時間もかけて遠くから食べに来る人もいるよ」。来日20年の社長(46)が自慢した。
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池袋は北口を中心に駅周辺に200軒以上の中国系店舗があるといわれる。横浜などの中華街とは違い、日本の商店と混在しながらさまざまな業種の店が自然発生的に増えた形で発展した。新華人が集う池袋の街を歩いた。
(この連載は、文を編集委員・大久保真紀、写真を高橋雄大が担当します)
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【池袋 新華人が集う街】
起業エネルギー無限大
2009年09月22日
「中国にいたなら生活は安定だが、会社の課長か部長止まりだった」。カラオケや料理店を経営する綾川陽子さん=豊島区西池袋1丁目、高橋雄大撮影
◆scene2 DREAM
池袋駅北口近くの中華料理店「逸品火鍋(イー・ピン・フオ・クオ)」。赤と黒を基調にしたおしゃれな店内は、白い湯気とにぎやかな笑い声に包まれていた。
「すみません。1時間待ちです」。9月のある日曜の夜7時。大連市出身の社長、綾川陽子さん(37)が申し訳なさそうに頭を下げた。44席は予約も含めて満席だった。
日本人客が7割。2年前の開店以来順調で、10月には同じビルの上階に店を広げる。
本当はアメリカに留学したかった。中国で大学を卒業。国営企業に勤めたが、離婚し、11年前に就学生として来日した。学費や生活費のほか、米国行きの資金を稼ぐために働いた。朝4時に起き、都内で大使館やビル2カ所の清掃をこなし、午前9時から昼までは日本語学校。午後はハンバーガー屋で働き、夜はまたビル清掃。家に帰り着くのは午前1時だった。
大学院に進んでも、週1回の通学日以外は、午前6時から午後11時まで牛丼屋と焼き肉屋で働いた。無理がたたって体調を崩した。大学院修了後、米国行きはあきらめ、日本で就職した。
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転機は07年初め。池袋のカラオケ店が売りに出ているのを知った。「華人向けにすれば、やれる」。十数人の友人から金を借りて数千万円の資金を用意、07年夏、華人向けカラオケ「富麗華(フー・リー・ホワ)」の経営者に。さらに、同じ年の年末に火鍋屋を開店。友人への借金は1年で返し、昨年の売り上げは1億円を超えた。
「女性で外国人だと信用が低い」と2年前には日本国籍を取得した。事業を拡大し、会社を上場するのが目標だ。
中国の実家の母親に預ける長男(12)を米国の大学に行かせてやりたい。苦労をかけた母親にマンションを買いたい――。夢をかなえる池袋は「私の命です」。
新華人たちの起業エネルギーはすさまじく旺盛だ。
池袋で東北料理店「大宝(ダー・バオ)」を2店経営する劉景華(リウ・チン・ホワ)社長(50)は、たたき上げの料理人。94年に来日。ラーメン店などで働き、6年で1千万円をためて02年に1号店を開店。華人向けに日本風にアレンジしない中国料理を出した。「本場の味」は日本人も引き寄せ、客の6割を占めるようになった。いまや月に1200万円以上を売り上げ、親類の中では出世頭だ。
「日本ではだれでも法的には平等。努力すれば成功できる。来てよかった」
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新しいタイプのビジネスも進出する。5月に開店した中国人向けインターネットカフェ「大任飛網広場(ダー・レン・フェイ・ワン・コワン・チャン)」。300平方メートルに70台ほどのパソコンを置いた。シャワーや洗濯機もある。利用料は1時間50~200円。
経営するのは、福建省出身の任雄(レン・シィオン)さん(37)、任傑(レン・ジエ)さん(34)兄弟だ。90年代後半に来日。日本語学校、大学、大学院と進み、友人らから金を借りて03年に大井町で20席ほどの1号店を始め、さらに同タイプを3店開いた。
池袋店は従来より広く明るい。賃料は月120万円。当初は90万円だったが、中国人とわかると上がった。だが、「華人が集まる池袋は将来性がある」と決断した。
3カ月で会員は1500人に。NTTのネットサービスやソフトバンクの代理店も務める。池袋での売り上げ目標は年3億円。11月からは中国人向けの独自のプロバイダーも始める。事業拡大への意欲は尽きない。(編集委員・大久保真紀)
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【池袋 新華人が集う街】
行きかう人・モノ・金
2009年09月23日
「モンゴルの民族や文化も知ってもらいたい」。小尾羊ジャパンの王明琳社長は、モンゴルの住居「包(パオ)」を意識した内装の池袋店でそう語った
◆行きかう人・モノ・金
◇scene3 CROSSROADS
「きれいな爪(つめ)ですね。どんなデザインにされますか」
本家燦(さん)さん(27)が大学生の女性の手を取り、話しかける。8月に池袋駅東口近くにオープンしたばかりのネイルサロン「ネイル・リボン」2号店。ピンクのカーテンがかわいい雰囲気を醸し出す。
本家さんは北京出身。19歳のときに来日した。中華料理店でアルバイトをしながら、日本語学校に通った。店に来た4歳上の日本人の会社員に猛アタックされ、02年11月に結婚、翌年長女を出産した。
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長女が1歳になったころ、中国に比べて技術が高いネイルの学校に通い始めた。約100人の同級生の中で中国人は1人だけ。言葉がわからずに苦労したが、子どもが寝てから毎晩練習した。
そのかいあって一番で卒業。上野のサロンで3年ほど働き、池袋駅北口に08年2月に1号店をオープンさせた。
池袋は16歳のとき、日本にいるおばを訪ねて旅行に来たとき連れてきてもらった場所。サンシャインシティがあり、中国系の店も多かった。「人が多くてにぎやか。それに北京よりきれい」。そのときの印象が強く、店を出すならまず池袋で、と決めていた。
これまで池袋では華人が華人相手にする商売が多かった。最近は日本人を意識する店が増えてきたものの、日本人をターゲットにする本家さんの店はその先を行く。スタッフ7人は全員日本人だ。
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池袋には、中国資本の企業も注目する。中国国内で650店をもつ大手の蒙古火鍋しゃぶしゃぶ「小尾羊(シャオ・ウェイ・ヤン)」。06年末から日本に進出し、池袋に日本本社を置いた。
現在、直営とフランチャイズ計11店をもつ。「日本人に本場の味を」と3年以内に100店開くのが目標という。
117席の池袋店は夜だけの営業で年間約1億2千万円を売り上げ、銀座店と並ぶ。
日本本社の王明琳(ワン・ミン・リン)社長(46)は2年前、地元の華人らと、「東京中華街」のブランド構想を打ち出した。池袋の中国系店舗がネットワークを組んで会員カードの発行やイベント開催をしようというものだ。「衛生面やサービスも向上し、日本人客を引きつける魅力になる。人が来れば、池袋のためにもなるのでは」
だが、地元の商店街から不安や反発の声が上がり、現在、構想は凍結状態だ。「新しい動きだから、当然の反応のひとつだと思う。焦ってはいない。時間をかけて地元側と理解を深めていきたい」
今年は間に合わなかったが、毎年9月末に開かれる地元の「ふくろ祭り」にも、「商店街に加入して、来年はぜひ参加したい」。
中国最大の銀行「中国工商銀行」も西口に出張所を開く計画を進めている。同銀行東京支店(千代田区)の肖玉強(シアオ・ユイ・チアン)副支店長(37)は「ターゲットは在日の華人。交通の便もよく、中国系の会社や店舗が多い池袋を選んだ」。許可されれば、東京支店以外の初めての営業店の増設になる。
中国国内の同銀行の約1万6千店舗に送金できるほか、中国語も通じる。営業時間延長や土曜営業も考えており、顧客拡大に自信を見せる。
池袋のある豊島区在住の中国人は約9千人。さらに毎日1万人が通勤、通学で来るといわれる。人、モノ、金が行き交う池袋は、日中の交差点になっている。
(編集委員・大久保真紀)
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【池袋 新華人が集う街】◆scene4 COMMUNICATION
踊って語って広がる縁2009年09月24日
「漢語角(中国語コーナー)」は毎回参加者全員で記念写真を撮る。この日は近くの中国物産店から飲み物の差し入れもあった=6日午後、豊島区西池袋3丁目
赤、黄、黒、ピンク……。ドレスに身を包んだ女性たちが、男性のエスコートで軽やかにステップを踏む。
池袋駅西口にある公共施設の大会議室。150人を超える人が、大音量のワルツやタンゴにあわせて揺れる会場は、熱気にあふれている。
毎週末、夜に開かれる日中友好社交ダンスパーティーだ。中国で娯楽として定着している社交ダンスで交流を、と企画されている。
主催するのは在日の華人で、2グループある。いずれも500~600円で、飲み物や軽いスナック類、果物つきで3時間ほど踊れる。参加者の女性はほとんどが華人で30代~50代。男性は華人もいるが、日本人が多い。
毎週来るという来日13年、中国語講師の30代の女性は「全身汗をかくし、楽しい。息抜きよ」。中野区に住む日本人男性(67)は「中国人には戦争のことなどで恨まれているかと思ったけど、素直でいい子ばかりだ」。
主催者の一人、貿易会社経営の余敏華(あまり・とし・か)さん(35)は四川省出身。足立区在住だが、わざわざ池袋で開く。「集まりやすいところで健康的な遊びの場を提供したいと思って」
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中国語での交流を育むのは、92年から池袋を拠点にする「CJサロン」だ。2カ月に1回、ギョーザパーティーやボウリング大会を催す。フリーでイベントなどを企画する胡逸飛(フー・イー・フェイ)さん(47)が始めた。
多いときには100人以上集まる。日本人スタッフのひとり、船橋市の会社員越智優さん(49)は15年前から中国語を勉強する。「中国語の実践の場。来た人が喜んでくれるのもうれしい。今後はNPO法人化も考えたい」
毎週日曜の昼下がりには、西口近くの公園で「星期日漢語角(シン・チー・リー・ハン・ユイ・チアオ)(日曜日の中国語コーナー)」が開かれる。日中関係の本などを出版する日本僑報社編集長の段躍中(トワン・ユエ・チョン)さん(51)が07年8月に始め、すでに100回を超えた。
9月初めの日曜は40人以上が集まった。ハンドマイクを使って、まずは中国語と日本語での自己紹介。豊島区に住む短大生陳曼霞(チン・マン・シア)さん(25)は「日本の友人を作りたいと思って来た」。上海留学から戻ったばかりのさいたま市の会社員平川英恵さん(28)は「生の中国語に触れたかった」。
この日は中国南部の湖南省にまつわるクイズ大会もあった。「湖南料理の特徴は何?」と司会者が尋ねると、参加者から「很辣(ヘン・ラー)(とてもからい)」。「毛沢東の好きな料理は?」の問いには、中国旅行が好きな川崎市の岡崎十郎さん(65)が「豚の角煮」と答え、拍手を浴びた。
月に1、2回は来るという墨田区の会社員井上和大さん(24)は「自由な雰囲気が好き。中国のいろんな地方の人が来ているのもいい」。
主催する段さんは91年に来日、豊島区から生活を始めた。池袋には愛着があり、数年前には公園近くに自宅も購入した。「この街は自分にとって日本の原点。日中交流の拠点にしたいんです」
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3時間ほどの会の途中で、公園にいたホームレスの男性が酒を片手に「何語話してるんだー。ここは日本だぞ」と叫んだ。段さんは飲み物を差し入れながら会の趣旨を説明した。「もう少しですから」と笑顔で声をかけられ、男性は「なんだ、結構いい男じゃないか」とつぶやいた。
(編集委員・大久保真紀)
-------------------------以下最終回
【池袋 新華人が集う街】
二つの故郷 言葉が結ぶ
2009年09月25日
中島菊さん。「外国に行くほど日本の良さを実感する。私は池袋から離れることはないと思う。だって池袋が大好きだから」=高橋雄大撮影
犬肉の鉄板焼き。牛すじのような食感で、臭みはなかった。犬肉は吉林省などの朝鮮族がよく食べる。鍋もあり、体が温まる。店では「栄養肉」と表示されていた
◆scene5 FUTURE
東池袋に本社があるIT企業「シンクシステム」の社長中山千恵さん(48)は、10月1日を心待ちにしている。
中国政府の中国語能力認定試験「HSK(漢語水平考試(ハン・ユイ・ショイ・ピン・カオ・シー))」を受ける日本人向けの対策ソフトを販売する日だからだ。6千を超える問題が網羅され、発音なども含め総合的に学べるシステムで、約2年がかりで開発した。
「第2の故郷、日本で中国語を学ぶ人たちを助け、中国を理解してくれる人を増やしたい」。そんな思いを込めた初めての自社製品だ。
中山さんは中国東北部の吉林省でプラスチック工場の工場長だったが、93年に日本企業に派遣されたIT技術者の夫(47)と来日。働くうちに居心地がよくなった。00年、夫が独立して会社を設立。中山さんが社長になった。仕事を国籍で判断されたくないと家族で日本国籍を取得した。
郷に入っては郷に従う。社員50人の8割以上を占める中国人にも社員教育を徹底している。声の大きさから近所づきあい、「ニンニクは金曜の夜だけ」と注意もする。
「好きで来たのなら日本の常識を身につけなくては」。それが口癖だ。
◇
新華人たちは日本と中国をつなぎ、その先に新しい未来の姿を描く。
在日華人向けに週1回、12万部発行する中国語新聞「東方時報」や携帯サイトを手がける「東方インターナショナル」(豊島区)社長の何毅雲(ホー・イー・ユン)さん(53)は88年に中国造幣局を辞めて、上海から就学生として来た。山口百恵や中野良子のファンで日本の歌や映画にひかれた。戦後の日本の発展を学びたいという使命感もあった。
翌89年、天安門事件が起こる。ショックだった。言論の自由がある日本で新聞を発行しよう。そう心に決めた。
日本語学校や大学に通いながら工事現場や清掃などのアルバイト。94年に池袋駅北口近くのビルの一室で本などを扱う雑貨店を開き、翌年、念願の新聞を創刊した。通信事業も手がけ、現在社員は30人。年商は約40億円という。
「日本は素晴らしい。自民から民主に政権交代しても、暴動も動乱もなかった。精神的な民主理念を伝えていくのも在日メディアの使命です」
◇
池袋で飲食店を開く中島菊さん(51)は、豊島区日中友好協会の中国人初、そして唯一の会員だ。通訳を依頼されたのがきっかけで95年に会員になった。翌年日本国籍を取り、はや13年。北京で女優としてテレビや映画に出ていたが、30歳で来日し、人生が変わった。
協会では、会員と中国人留学生らとの旅行や「春節(中国の正月)を祝う会」を企画・運営する。
なかでも大事にしているのが、9月末に開かれる「ふくろ祭り」の国際交流みこしの世話だ。中国や世界各国の留学生ら100人が参加する。「外国人は自己主張が強いからおみこしのバランスが悪くなる。そこを注意するの」
みこしを担ぐと、肩に1週間は消えないアザができる。それでも今年も27日に、法被姿で担ぐつもりだ。
「縁起物だから。それでまた1年順調に頑張れる」
外国人と日本人が仲良く安全に暮らし、文化交流のモデルになる街。池袋にはそうなってほしいと願っている。
(編集委員・大久保真紀)
=終わり
◆「本場」の味<犬肉>
犬肉の鉄板焼き(写真)。牛すじのような食感で、臭みはなかった。犬肉は中国全土で食べられているが、特に朝鮮族が好んで食べる。店では「栄養肉」と表示されていた。