海外華僑や日系企業、それに日本の有志の篤志醵金で、中国の僻村に小学校などの校舎が新築され、貧しい学童たちに学用品などを届けている。義務教育を終えるまで里親になって毎年いくばくかのお金を送り続けている友人・知人もいる。“貧者の一灯”のこのような行為は尊いものであり、素直にそうした行為がとれないわたしの自己弁護にもなるが、以下の三つの理由で忸怩たる思いがしている。
そのひとつは、遅まきながらも20年前に「義務教育法」を制定、9年制の義務教育をうたっている中国が、国の責任で実施・定着させなければならない義務教育をいつまでも発展途上の財政不如意で、と地方にマルナゲしていていいのか、ということである。かって朱鎔基前総理が来日時に民放のテレビ討論に参加して、この問題で日本の有志による「希望工程」に謝意を述べられたが、義務教育を優先課題として採りあげるとの決意表明はなかった。日本の近代化のなかで「義務教育」が「国家百年の計」として位置づけられ、親も法的に「義務」として子弟を通学させることに努力し、貧しい家庭には奨学資金の支給などで励ました。
張芸謀の「あの子を探して」は僻村の就学問題をとりあげているが、これまでも述べたようにこれはヤラセで、社会問題としてとりあげていない、国の責任を問いただしていない、取り上げたテレビ局を“美談”にしてチャラチャラしているに過ぎない。
ふたつめの問題は中国の徴税のあり方である。
最近ではフォーブスにもとりあげられ、世界の富豪百傑にも数名の中国人が名を連ねるようになってきているが、かれらが中国の納税ランキングに名を連ねることはない。これまでにもフォーブスにとりあげられると海外に私有財産を隠匿、逃亡を図ったケースがいくつもある。さらに役人との結託、買収、汚職の数々。毎年のことながら中国の国会(全人代)で公式報告される大臣級を含めた汚職とその金額の増え方に、この国の危機を覚える。
三つ目は中国人の連帯意識の問題である。
地縁・血縁・学縁などともいわれる仲間内には親切だが、よそ者には冷たい。
前にも書いた外地人に対する措置は、国が未だに戸籍を理由に民工たちの子供たちの就学を拒否し、“二等公民”扱いにしている。これが国連の常任理事国のとるべき、国民への態度であろうか、発展途上国のリーダーを目指す国家のとるべきことであろうか。
九賽溝からの帰途、トイレ休憩で茂県の村落に足を踏み入れた。
ここでも家の改築が進んでいたが、それでも付近の村落にはとけこまない日本風の小学校があった。門に「○○希望小学校」とあった。中国の学校とは思えないほどの広い運動場をはさんで2階建ての校舎が二棟建っている。
改築工事を見ていた人が隣の陋屋にわれわれを招じ入れてくれ、囲炉裏のお茶を振る舞い、汚いがとトイレを貸してくれた。
この学校は日本と台湾の篤志家の寄付で建てられ、それぞれの校舎に個人のネームプレートが貼り付けられている、と指差す。今日は振り替え休日でと、見る間にふくれあがって取り囲む子供たちの頭を撫でながら、通訳を介して親しげなメッセージを繰り返す。メンバーがバスに駆け戻り、飴を配るが予定外のトイレ休憩、何のお礼もできないままの別れとなった。
これがあるから、「希望工程」があるのか、継続は力になるのか、と思った。