4日の日本経済新聞に掲載された「公園に集まってニイハオ 日中草の根交流の場、毎週日曜に無料で」は、娘が入力してくれましたので、ブログに掲載致します。
「ニイハオ」「こんにちは」。東京・池袋の西池袋公園であいさつが交わされる。毎週日曜日の午後にボランティアで開いている無料の中国語交流サロン「星期日漢語角」だ。星期日は日曜日、漢語は中国語、角はコーナー。3年前の8月から年末年始などを除き休みなく続けている。既に160回以上、参加者は延べ6000人を超えた。
∞ ∞ ∞
20年前来日、元は記者
私は中国湖南省出身。20年前、1991年の夏に33歳で来日した。以来、日中両国の草の根の交流を促す様々な活動を続けてきた。もとは中国青年報社で記者として働いていた。先に来日した妻から「ジャーナリストとして日本を見てみたらどうか」と誘われた。日本語は分からず、日本のこともあまり知らない。不安でいっぱいだったが、すぐに好印象を抱いた。
日本に降り立った日のこと。成田空港から妻のいた東京の巣鴨に出た。駅前の電話ボックスから迎えを求め連絡した。改札口に戻った時、パスポートや財布を入れたバッグを電話機の上に忘れたのに気が付いた。慌ててとって返したところ、バッグはそのままそこにあった。市民のマナーの良さに感心した。
日本のメディアが政治家を堂々と批判したり、風刺したりするのにも驚いた。一方で外国人の犯罪を報道する姿勢が気になった。悪い面をことさらに強調しているように感じられた。もっと良い面にも目を向けてほしい。92年にそんな趣旨で新聞に投書したら掲載された。私のつたない文章を丁寧に直してもくれるので、投書は大事な日本語学習法の一つだった。
日本語は研究生として籍を置いた東京学芸大学の講義やボランティアの家庭教師のレッスンで学んだ。駒沢大学や新潟大学の大学院では日本の中国語メディアや在日中国人の活動を研究した。
∞ ∞ ∞
雑誌創刊やメルマガも
96年に日中交流の社会活動を本格的に始めた。日中交流ネットワーク(後のNPO法人日中交流支援機構)をつくり、中国人が発行した新聞や雑誌、日本語の書籍を紹介する展示会などを企画した。こんな中国人が日本にいることを知ってもらいたい一心だった。
同年春に雑誌「日本僑報」も創刊した。やはり在日中国人の活動を紹介するのが目的だった。準備段階の4号を経て、本格始動した8月の第1号はNHKの中国人ディレクターを取り上げ、日本での中国人留学生の「超」就職法を特集した。
途中で季刊になり、判型を変えた時期もあるが、基本はB5判月刊の冊子で、150号近くに達した。主な読者は日本の中国研究者や行政、メディアの関係者。98年にはメールマガジン「日本僑報電子週刊」も始めた。こちらは20カ国以上、1万人に達する登録者を抱えている。毎週水曜日の発行で、1000号近くの実績がある。
10年ほど暮らした埼玉県川口市から池袋に移り住んだ2005年が一つの転機になった。その年に中国人の日本語作文、その逆の日本人の中国語作文の2種類のコンクールを始めた。その受賞者らの交流の場をつくりたいと考え、公園での「漢語角」を思いついた。中国では同様のサークルがたくさんある。そのスタイルをそのまま導入し、07年に始動した。
文字通り、雨にも負けず、風にも負けず、今に至るまで毎週休むことなく続いている。よほど天気の悪い日は、近所の喫茶店や会社の会議室を会場にする。まず中国人は日本語で、日本人は中国語で自己紹介。それからメーンスピーカーを決めて話してもらう。
外交官や大学の教員、中国メディアの東京特派員、そして子供からお年寄りまで参加者の職業や年齢はバラバラ。日曜日の午後、池袋に来れば誰でも飛び込みで参加できる。3年で常連も増え、遠くは島根や京都などから出張のたびに顔を見せる熱心な人までいる。
∞ ∞ ∞
広がる人の輪に感動
参加者同士のつきあいも広がっている。中国人の引っ越しを日本人が車を出して手伝ったり、子供が生まれた中国人留学生にお金を出し合ってお祝いを贈ったり。そんな話を聞くと感動がこみ上げてくる。08年の湖南省の雪害や四川大地震の際は、皆で累計150万円以上もの募金をした。
もちろん苦労はある。夏は暑く冬は寒い。資料やマイクの用意などで何かとお金もかかる。休日の家族との時間も犠牲になる。それでも意義は大きいと自負している。ときに両国政府がケンカをしていても、市民同士がつながっていれば大きな問題にはならない。草の根の国際交流の場として、いつまでも続けていきたい。(だん・やくちゅう=日本僑報社編集長・日本湖南人会会長)
【写真】毎週日曜日に公園で開く中国語交流サロン(東京・池袋、07年8月の初回)