時代とともに生きた記者の証言。
この本の原著の題名は『難得清醒』である。これは、著者、李莊を含む中国の知識層に多くのファンを持つ清中期の文人で揚州八怪の一人、鄭板橋の『難得糊塗』(バカであり続けるのはむずかしい)の名句から来ていることは、本文第一章「出発」に書いた通りである。この言葉を自叙伝的な自著に、鄭板橋の句を逆説的な意味も込めて表題にしたのは、文中に述べた通りだ。日本語訳は主要な訳出部分を著者の青壯年の活躍期である日中戦争(中国側からいえば抗日戦争)にしぼったこともあり、書名を『抗日戦争と私』とした。 李莊が愛国心に燃える努力型の記者であることは文中で明きらかな通りで、虚飾を好まず、真実の追求に徹するジャーナリストである点には深く印象づけられる。 日中戦争末期の安陽(当時の呼び名は彰徳)攻略戦で、トーチカに立てこもった日本兵の一隊があくまで投降せず、ついに自爆を遂げた現場を取材して、「ファシストに命を売り、このように頑固、依怙地であったのは悲しむべきことだが、命令に従い、死を恐れない彼らの姿を見て、日本民族はいつまでも人の下に甘んずることはあるまい」との感想を記している。実体験を元にした本書の最も印象的な場面の一つだが、訳者はこのくだりを読んで、日本軍の現役下士官として中国戦線で戦い、その体験を書いた火野葦平(一九〇七~一九六〇)の作品を思い出した。
著者について
李莊は一九四五年、河南省邯戦での人民日報創刊に参加し、中華人民共和国の建国を宣言した一九四九年九月の人民政治協商会議第一回会議では同紙首席記者として代表取材に当たった。本書の記述はさらに八六年編集部門の最高ポストであり同紙総編集からの引退まで及んでおり、その間、朝鮮戦争、インドシナ休戦のジュネーブ会議にも首席記者として特派された。その後、『ソ中友好』誌顧問としてモスクワにも滞在、一九八〇年には人民日報代表団長として来日し、大平首相らと会談した。