現在江西財経大学で日本語を教えている田中弘美先生のブログを特別転載します。日中両国市民が共に頑張って、よりいい未来を築けましょう。
以下は転載です。
「南昌日語角に博堅さんが来た」 2013年3月9日(土) No.585
2013年03月09日 21時07分21秒 | 中国事情
約3ヶ月ぶりに南昌市内八一公園の日本語コーナーに出かけた。
4年生の洪文芳さん、3年生の黄優ひんさん、そして石田キコさんとお祖父さん、お祖母さんと私の総勢6名は、いつものように混み合うバスでヨレヨレになりながら、10時前に公園到着。
あっちでもこっちでも熱心に踊っている中高年グループを脇に見て、池の傍の日語角(日本語コーナー)を目指した。
今日はいつもと違うことが2つあった。
人数が30人以上も参加していたことが一つ。もう一つは、な、なんと!この日本語コーナーの設立者、博堅さんがいらっしゃったことだ。
初めてお会いした私は、一緒に写真撮ってもらったり、昼御飯をご一緒したりと、ミーハーぶりをいかんなく発揮した。
28年前(1985年)、中国で初めての日語角を政府に申請して正式に場所を確保して以来、
何人もの第一線で活躍する日本語通訳を輩出してきたこの南昌日語角。その創立者である博堅さんについては、以前、ブログで触れたことがある。
博堅さんのお父さん(博棣華氏)は、辛亥革命、日中戦争、中華人民共和国成立期の激動する中国、そして日本に身を置き、1949年11月に北京胡同にある母方の実家で亡くなった。
博堅さんは、両親が権力闘争の激しい中国から逃れるために渡った日本の福島市で生まれて11歳まで育ち、日本での迫害が耐えがたく酷くなってきた1944年、中国に家族とともに帰った。
石を持て追わるる如く日本を去った忌まわしい体験を持つというのに、どうして博堅さんは日語角を開くことに尽力されたのだろうか。「季刊中国No.99 2009年冬季号」に掲載された博堅さんの文章「父、福島高商外人教師・博棣華(はくていか)について」(大河内敏弘訳)の中に
その答えがあるかも知れない。長いが、数回に分けて紹介したい。
『福島市。みどりしたたる山々に囲まれ、
清らかな水が流れている。風光明媚なところだ。
ここは夢の中にしょっちゅう現れる私が生まれ育ったふるさと。
そして、96年前、父博棣華が日本で仕事を始めた土地なのだ。
(中略)
幼いころには戻れないし、周囲に昔のものがはっきり残っているわけではない。
しかしながら木造三階建ての我が家のことはよく覚えている。
庭は深々として柔らかな草が萌え、四季折々の花々が絶えず咲き誇っている。
木々の枝には果物がたわわに実っていた。
秋になると裏庭のイチジクの実がなる。
母はそれを捥いでは大きなお盆に盛り、私たちに与えた。
(中略)
1939年、私は福島第四小学校の四年生だった。
夕方になって陽が西に傾く頃、私たちは
「夕焼け、小焼け…」と歌いながら家に帰ったものだ。
信夫山のお寺の鐘の音が聞こえるなか、家中の者が洋式の客間に勢揃いして
母が作った美味しい中国料理を喜んで食べた。
この上なく楽しく幸せな日々だった。
やがて日中戦争の黒雲が世間を覆いつくし、
侵略者の魔手が異国の人々に伸びて来だした。
終日「空襲警報」と「警戒警報」のサイレンばかりが鳴り渡っていた。
1943年、学校では半日学習、半日勤労奉仕の制度が実施された。
ある日のこと、ガキ大将に率いられた同級生が
自転車の歯車を手に「シナ人、チャンコロ」とはやしながら私に襲いかかった。
こめかみが割れ、血が噴き出し、制服の七つのボタンも引きちぎられた。
反撃することは叶わず、涙が止まらなかった。
家に帰ると、制服制帽の特高がいつも我が家に来ていた。
そして「日満は一体であり、共存共栄しなければならない」
と説教する。
そのたびに父の両腕をとって、両手を挙げて「万歳」を唱えろと強いる。
父はこの凶暴な振る舞いに逆らうことはできなかった。
しかし、身体は特高のなすがままに従っていたが、心まで従うことはなかった。
父には忍従の日々だったことだろう。
配給制度の下、最も困難な日々であった。
戦争は日本人だけでなく、とりわけ日本に住む中国人に災難の多くをもたらした。』
(続く)
「博堅さんの父、博棣華(はくていか)氏」 2013年3月10日(日)No.586
2013年03月10日 21時56分05秒 | 中国事情
博堅さんは今年81歳。
昨日の八一公園日本語コーナーの後親しい仲間の昼食会に私と石田キコさんもご一緒させていただく光栄に与ったが、白酒をたしなむほどに少年のような態度になり、
「♪い~つまでも~ たえる~ことなく~と~もだちで~ いよう~
今日の日は~ さよう~な~ら また~会う~日まで~♪」
と、クラシックの歌い方で美しく歌うので、隣席の私はついつい、地声の低~い声でデュエッしてしまった。本当はそんなことではなく、いろいろお聞きしたいことがあったのに呑気に歌など歌って貴重な時間は過ぎ去った…。
博堅さんのお父さん、博棣華氏は、1924年から1944年までの20年間、福島高等商業学校(現在の福島大学経済学部)の教師と、東北帝国大学の講師を務めた。
博棣華氏の親友に、魯迅を最初に日本に紹介した中国文学の碩学青木正児氏がいる。
1985年福島大学創立40周年を記念して戦没同窓記念碑が建立されたが、その碑文の筆頭には博棣華氏の名前が刻まれている。博棣華の名前を知る人は少ないが、彼は日中文化交流の先駆けであり、開拓者である。
激動の20世紀前半を生き、今、日中両国の交流に貢献した人として顕彰されている人物に、
秋瑾(しゅうきん)、徐錫麟(じょしゃくりん)、孫文、魯迅、聶耳(にえある)、そして博棣華など、日本で生活を送り、日本を知悉(ちしつ)する人々がいる。日中文化交流に貢献した彼らの名が歴史の反古に紛れてしまわないことを祈る。
「父、福島高商外人教師・博棣華について」より
『戦争はいよいよ激しさを加え、日常生活は日ごとに苦しく、
父に対する特高警察の監視もさらに苦しくなった。
ついに、1944年12月、福島大学の浜島教授の説得に動かされて、
私たちはなすすべなく帰国の途についた。(中略)
1945年3月、父・博棣華は鉄道管理局保線区参事に任ぜられ、
併せて華北交通大学の学長も務めた。
1945年8月15日、日本は投降した。(中略)
1946年1月から7月にかけて、
父・博棣華は華北交通大学の教室や教職員宿舎を開放し、
内蒙古から日本へ引き揚げる日本人難民が故国へ帰る船を待つ間の食事と部屋を提供した。
自らの危険を顧みず、
人道主義の精神と日本での生活で庶民から受けた友好的厚意に応えるために行ったことであった。
日本人難民は、帰国に際して父の手を握り涙を浮かべて別れを告げた。
こうして約600名が天津の溏沽港から故国日本へ向かった。
しかし、父が日本人に対して行ったこの行為は国民党の軍規に違反するとして、
1946年8月、父は逮捕され入獄した。
当時、大学に付属する住宅に住んでいた私は13歳になったばかりだった。
父の獄中生活の間、三姉・慧と私は、毎日監獄の父に食事を運んだ。
監獄の花模様のガラス窓にかすかに映る父の後ろ姿については語る言葉もない。
父は同年9月に無罪となり、釈放され出獄した。
12月、父は大学を辞して北京に戻った。(中略)
獄中生活の過重な苦労で出獄後時を経ずして病を得、
精神的にも打撃を受けて、父は痴呆となった。
1949年11月27日、博棣華の母親の実家である汪家の胡同の一室で亡くなった。
遺骸は北京郊外の双橋にある八王墓地に葬られた。
しかし、文化革命の時にこの墓地は壊され、遺骨は散逸して今は無い。
母親・安熙貞は1966年11月26日、文化革命中に江西省南昌市で逝去した。
その遺骨は現在は日本の鎌倉に埋葬されている。』
「人生は苦しい。そして短い」 2014年2月15日(土)No.847
http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=f2b147ef6121b265c1b3acaa964f588b
一昨日13日は八一公園に日本語コーナーを設立した博堅先生の送別と、岡山商科大学から戻ったばかりの江西師範大学の丁勇先生の歓迎を兼ねた宴会があり、今日15日は、博堅先生が日本語コーナーに来られる今季最後の日ということで、日本語コーナー活動後、参加者みんなで近くのレストランで昼食会をした。
今度いつ博堅先生が南昌にいらっしゃるか、そして、その時に私は南昌にいるかどうかも分からない。普段、何かと言えばすぐ宴会する「南昌ノミニケーション」には少々くたびれていた。しかし、今回は、また会おうと言ってもその日は来ないかも知れない大切なひと時だ。
「渭城の朝雨軽塵を浥し
客舎青々柳色新たなり
君に勧む更に尽くせよ一杯の酒
西のかた陽関を出づれば故人無からん」
とは、こういう場合にピッタリの詩だなあと一人感じ入っていた。挨拶で博堅先生が開口一番に言われたのが
「人生は苦しい。そして短い。」
だった。
博堅先生は1933年、福島県で生まれ、戦時下の1944年11歳で中国に戻った。博堅先生のお父さん、博棣華氏は、当時福島高商(現福島大学経済学部)で中国語などを教え、中国に戻ってからは華北交通大学の学長に就任した知識人だった。博棣華氏は1946年1月から半年間、大学を解放して多くの日本人引揚者を保護し、天津港から日本に帰したが、後にそれを罪に問われて逮捕され、出獄後、時を経ずして痴呆になった。
博堅先生は1946年~48年、13歳から15歳の間、バス会社に雇われたり、新聞売りをしたりしながら小・中学校で勉強した。1949年、16歳で革命軍に参加し、いくつかの部署を経た後、朝鮮戦争に少年兵として従軍し、部隊の士気を高めるために小さな打楽器を打ち鳴らして戦士を鼓舞する役割を担った。しかし、なんと「日本関係者」だということで軍隊を追放されてしまった。それから文化工作団で俳優、脚本・原作執筆など活動の場を得て専心し、後の江西省歌舞団の実力者としての礎を築いた。さらに、文化大革命時には4年間下放されたが、改革開放の時代が到来し、大阪の戦友会「椿会」の江西省訪問、侵略戦争への謝罪の旅に同行して通訳を務め、重大な歴史の生き証人にもなっている。
その後も椿会メンバーと交流し続けたために海南島で省政府により監禁されるなど、時代と国家に翻弄される人生が続き、今年81歳を迎えた。今日のこの言葉の裏には、こうした多くの事実が横たわっている。
それなのに、どうしてだろう。博堅先生は中国も日本も嫌いにならないのだ。博堅先生が設立された八一公園日本語コーナーは来年30周年を迎える。中国中探しても、こんなに自主的かつ元気に活動している日本語コーナーはないだろう。
現在、博先生は自身が日本語コーナーを設立するに至った経緯などを含め、 江西省と日本との友好の歴史について執筆中である。本人は「記憶がしっかりしているときの記念に」とおっしゃるが、脱稿の暁には日本のどこかの出版社が引き受けてくれないかなあ。
きょうだいや身内に多くの大学卒業、大学院博士号取得者、大学教員がいる中、自分は中学校にしか行けなかったと嘆く博先生は、地位ある人を紹介する際、 「この方は○○大学の博士号を取りました。たいへん偉い人です。 」 と言う。その言葉にいつも苛立ちを覚え、 「じゃあ、学校に行けなかった農民は偉くないんですか」 と要らんことを言い続けたワタシだが、もちろん心情が分からないわけではない。しかし、最後まで市井の人でありつつ、自分の人生でなしうるベストを尽くし、偉大なる庶民として、私たちの敬愛する先輩として、命を輝かせていただきたいと、心の深いところで願っている。