原文は中国語、1998年4月、上海教育出版社から刊行した『
負笈東瀛写春秋―在日中国人自述』http://duan.jp/item/300.html に収録。
今回見つけたのは和訳版。ネットでいいですね。ここに転載し、永遠の記念とします。本当にありがとうございます。
限りある生命を限りのない日中文化交流に -私の留学生活を振り返って
出身校:[新潟大学] 段 躍中(男)
日本に来てまだ間もない一九九一年の秋、私たち夫婦は狭い四畳半の部屋で肩を寄せ合い、途方もないことばかり考えていた。この十年の間に五度も引っ越したが、今でも住まいはささやかなものだ。私はこれから劉禹錫(注:晩唐の詩人)のやり方を真似て、変わることなき人生への探求を語ろうと思う。これまで暮らしてきた狭い小さな部屋が、私に多くのインスピレーションと強い意志を与えてくれた。そうしたことをいつも忘れず、心に刻みこんで、自分の励みとしていきたい。
◆初めて「学長賞」を授与された中国人
日本での生活のスタートは、東京都豊島区の巣鴨からだった。妻の方が二年も前に来日していたので、不動産屋から追い出されるような辛い体験を味わうことはなかったが、幾つもの荷物を担いで我々の新天地に足を踏み入れたとき、確かにどうしようかという思いが涌いてきた。手を伸ばせば天井を触ることができ、使えるスペースはわずか四畳半の和室のみ。中国で使い慣れていた大きな書斎机もなく、あるのは夕刊をやっと広げられるくらいのちゃぶ台だけだった。トイレと風呂以外は、すべてこの部屋の中で生活をしていた。
私は三三歳と四カ月で日本に来た。アイウエオさえろくに分からなかったため、巣鴨の四畳半の部屋で懸命に日本語を勉強し、基礎を築いた。それに加え、ばか高い学費を稼ぐために、寸暇を惜しんで働かなければならなかった。
私の日本語の学習法は、次の三点に集約される。
一つ目は、躊躇せず日本人に教えを請うこと。上野の飲食店でアルバイトしていたとき、杉山幸雄さんという親切なオーナーがいて、私に皿洗いのほか接客もさせ、客と会話をする機会を作ってくれた。私の日本語が少し上達してからは、手が空いた時間を利用して、二人でとめどもなく話をした。口と同時に手の方も忙しく動かして、互いに漢字を並べながらの交流である。私の発音がおかしいと、オーナーはいつもその場で直してくれた。あるときは幾つも幾つも動詞の用法を挙げ、紙に書き出してくれた。杉山オーナーのもとで働いた一年間に、当初は片言の挨拶しかできなかった日本語が、辞める頃には短い文章を書けるまで上達していた。一年間の苦労が報われたのである。
二つ目は、自分の周りに日本語の包囲網を張り巡らせたこと。四畳半の我が家に戻るとまずラジオのスイッチを入れ、内容を理解できるかどうかにかかわらず、ずっとつけっぱなしにしていた。手を洗うときも、着替えるときも、食事の支度や食器洗いのときも、いつもアナウンサーの話す標準的な日本語の中に身を置いていた。今ではこの癖が一層ひどくなり、家の中に幾つもラジオを置いて、すぐにスイッチが入れられるようにしている。また、来日して三カ月たったころから、無謀にも新聞の購読を始めた。理屈は非常に簡単で、日本語を学ぶための投資は惜しまない、ということだった。せっかく購読している新聞に手をつけないのは、お金をドブに捨てているのと同じである。だから、毎朝新聞受けがカタンと音をたてるのを確認すると、すぐに手に取り、家で、また電車の中で、一、二時間かけて真剣に新聞を読んだ。さらに毎日図書館に通い、代表的な新聞五紙にざっと目を通した。妻はこんな私を見て、「新聞中毒症」だと皮肉ったものだ。
三つ目は、日本語で日記や短編を書いてみること。一九九二年八月一五日の読売新聞に、私が日本語で書いた投書が初めて掲載された。ちょうど私の来日一周年にあたっていた。前日に新聞社から電話をもらい、次の日の読者ページに掲載されることを知った。日本語を学びはじめてわずか一年、そんな外国人の投書が活字になるのだ。私はとても興奮して、新聞が配達されるのを今か今かと待ちわびたが、その日に限って六時を過ぎても配達人の姿が見えない。不安な気持ちを抱きながら駅に向かい、キヨスクで読売新聞の朝刊を手にした。ページをめくるのももどかしく、読者ページを見ると、確かに私の投書した「豆腐一丁」が掲載されていた。それも囲み記事として。まるで眼鏡が拡大鏡に変わったかのように、「中国」「段躍中」の五つの文字が目に飛び込み、興奮を抑えることができなかった。こんな私のことを、滑稽だと思う人もいるかもしれない。しかしこの豆腐について書いた投書が、日本語で文章を書き、そして発表する勇気と自信を私に与えてくれたのだと思う。これ以降、私の投書が、全国紙・地方紙合わせて二〇以上の新聞に続けて掲載された。その後、私が心血を注いで書き上げた、これら一〇〇編余りの文章を集めて「日本留学見聞録」と名づけて製本した。これは私の日本語学習における最大の成果であり、良い記念になっている。
巣鴨の狭い部屋で奮闘した三年半の間に、私は修士号を取り、日本語の短編集を刊行することができた。東京国際学生論文の優秀賞をもらい、駒沢大学創立一〇〇年の歴史の中で、初めて「学長賞」を授与された中国人留学生にもなった。とりわけ新聞に投書し続けたことが私の日本語レベルを飛躍的に向上させ、その後日中両国のメディアにたずさわり、また在日中国人の研究をするためのしっかりとした基礎を築くことができたように思う。
◆日本初の「在日中国人新聞出版活動成果展」
一九九五年四月、私は田中角栄元首相の出身地、新潟に移り住んだ。国立新潟大学大学院の博士課程で学ぶためである。幸いなことに、大学の国際交流会館にある留学生宿舎に住むことができた。
東京巣鴨の住まいに比べるとまさに雲泥の差で、作り付けの机と椅子、冷蔵庫、風呂場、トイレなど必要なものがすべて揃っていた。唯一不満だったのは、情報の伝達が遅いことで、私にとっては精神的に閉ざされた場所でもあった。
東京から運んできた十数箱にもなる書籍や新聞、雑誌を整理していると、私の手元にあるのは現代中国人の奮闘の歴史であることに気がついた。一〇〇〇点にものぼる中国語の新聞・雑誌や書籍類は、私の研究に非常に役立つものだった。博士課程での研究テーマに基づいて、これらの資料を最大限に生かし、多くの人に在日中国人の活躍と成果を伝えようと決心をした。そこで、当時指導を受けていた多賀秀敏教授に、小規模な展覧会を開きたいと相談してみた。多賀教授は、私の手元に生きた資料が豊富にあることに感心し、全面的な支援を約束してくれた。教授とともに展覧会の計画を綿密に練り、また研究費の中から郵送料を出してもらい、教授の交友関係を通じて案内状を発送した。多賀教授の理解と励まし、多大なる支援については、今でも心から感謝している。
出
版社、新聞雑誌社、それに文筆家たちに最新の資料を募る手紙が、私の住む留学生宿舎から送りだされた。それに呼応して、在日中国人に関する研究論文や報道記事が次々と私の部屋に集まってきた。二カ月余りに渡る緊張の準備期間が過ぎ、八月の新潟で、日本初の「在日中国人新聞出版活動成果展」を盛大に開催した。会場を飾る生花も切り絵もなかったが、二日間で数百人もの観客が展覧会に集まった。中国人の日本語著書を一冊ずつ手にとり、また中国人が編集している中国語新聞を一枚ずつめくっている姿を目にして、私は一人の中国人として喜びと幸福を強く感じた。とりわけ、多くの研究者からこの展覧会は学術研究上たいへんな価値があると称賛され、また「人民日報海外版」からの取材を二度も受けたことで、私の自信はますます深まった。
展覧会が終わり、二メートル以上の大きな看板を担いで宿舎に戻ってから、様々な感情が心に浮かんできた。在日中国人の犯罪が日本で盛んに報道されていることに、我々は非常に憤慨している。その一方で、中国人留学生がこれまで築きあげてきた成果はほとんど一般に知られていない。このコントラストこそが重要であり、どうやって我々中国人留学生のイメージアップに努めていくかということが大きな課題なのである。東京から遠く離れた新潟の地で、私はひとつの試みを行った。中国人の執筆した日本語著書の歴史と現状を初めて系統立てて整理したのだ。これは日中両国の関係に良い影響を与えることができたと思う。またこのことは後に『在日中国人大全』を出版する上で、非常に大きな力となった。
一九九六年八月、年に一度の「アジア文化祭」の幕が切って落とされた。文化祭の催し物のひとつとして、「中国新聞雑誌展」が新潟市中央公民館の二階ロビーで行われ、市民に公開された。前年に実施した展覧会の資料に加えて、日本各地から数百種類の新聞雑誌が寄せられ、さらに内容が充実したために、県政府の資金援助を受けて開催の運びとなった。期日通り「中国新聞雑誌展」が開催できるように、日本国内のマスコミに携わる友人たちが協力してくれ、多種多様の新聞を、続々と私のもとに送り届けてくれた。人民日報社長である邵華澤先生には、この展覧会のために筆をとってもらい、その掛け軸は多くの観客の目を楽しませた。また新華社東京支社が展覧会の模様をニュースにしたのを始め、人民日報等のメディアも次々と取材に訪れてくれた。新潟で過ごした一年ちょっとの間に、私は二度の展覧会を成功させ、故郷を離れて暮らす者の心意気を示した。たとえそれが大量のエネルギーと時間を消費し、経費のかさむものだったとしても、異国の地で日中文化交流の新しい局面を築いたということは、私に比類無き喜びをもたらした。当初は精神的に閉ざされていると感じた場所が、実り多い土地へと変化したように感じられた。
◆同胞に尽くし、祖国に新しい一章を記す
一九九六年春のまだ肌寒さが残る頃、博士課程の所定単位を修了した私は、指導教授である国武輝久先生の同意を得て、東京周辺で在日中国人の調査研究を行いながら論文の執筆に取り掛かることにした。家族三人で雪国の新潟を離れ、東京近郊の埼玉県川口市に引っ越した。今度の住まいは日本伝統の木造家屋、長年の風雨にさらされた平屋であった。孔子にはかなわないだろうが、私の持っている雑誌や新聞なども引越しのたびに量が多くなり、四畳半の部屋ひとつをすっかり埋め尽くすほどになってしまった。中国語の出版物が豊富に揃った、中国留学生文庫(現在は在日中国人文献資料センターに改名)の誕生である。
三〇年、あるいは五〇年たった後、改革開放後に盛り上がった日本留学熱と在日中国人の歴史を振り返るとき、現在出版されている資料はたいへん役立つに違いない。そうした将来を見越した考えを持ち、すすんで他人のために汗を流すことができる人物になりたい。日々の粘り強い積み重ねによって、現在はさして注目されていない印刷物であっても、将来きっと世間の注目を集めるに違いないと思う。私は喜んで自分のお金と時間を費やし、中国人の日本語著書の整理収集にあたった。身なりも食事もかまわず、黄ばんだ古新聞を印刷所に送って装丁し、本に仕立てた。それと並行して、日本に暮らす同胞たちの記念碑とし、日中交流の歴史に新しい一頁を開くためにこれらの書物を専門的に扱う「日本僑報」を創刊した。「日本僑報」は、一九九六年八月一日の創刊以来、すでに五十八号を数える。そして一九九八年八月に、メールマガジンの日本僑報電子週刊も創刊し、在日中国人の活躍情報を無料で毎週水曜日に配信してきている。皆さんのおかげ、このメルマガは大変好評を得ており、数万人の読者を定期的に購読してくれた。
現在私が所蔵する在日中国人の発行した新聞、雑誌は一六〇種類以上、数万部にもおよび、中国人の日本語著書は一〇〇〇冊余り。多くの研究者から日本随一の所有量であると称されている。
多くの人が在日中国人の真の姿に関心をもってくれていたので、私は、当時コンビュターもない状況ながら、自分だけの力で『在日中国人大全』第一版を編集した(一九九七年試作版)。内容は不十分で漏れが多いことは認めざるを得ないが、多くは経費や紙面の制限により、仕方なくあきらめたことなのである。しかし、この本をたたき台にしたいという当初の思いは達成された。幅広い読者の支持を受け、貴重な一歩を踏み出すことができたのだ。
湖に投げ込まれた小さな石のように、『大全』は日本および中国人社会に大きな波紋を呼び起こした。NHKや日本経済新聞、毎日新聞、読売新聞などの報道機関が、『大全』の資料に基づいて在日中国人の活躍というテーマを取り上げた。一九九八年版の『在日中国人大全』は、一〇〇〇頁、数万データ掲載の分厚い冊子になった。この本は、私一人の力で出来たのではない。民族自尊心あふれる多くの同胞たちの理解と支持に勇気づけられ、自信を深めたからこそ挑戦することができたのである。昼も夜もなく資料の整理に追われ、『大全』の新版を発行するまでの間に、二度も救急車で病院に運ばれるはめになった。
現在、在日中国人文献資料センターや「日本僑報」と聞けば、すぐに在日中国人の優秀な成果を収集・整理した情報センターだと分かってくれるだろう。しかし、私の努力はまだまだ十分ではなく、朱建栄教授から贈られた「替同胞作嫁衣裳 為祖国写新篇章」(意訳:同胞に尽くし、祖国に新しい一章を記す)という目標にはほど遠い。私は限りある生命を、限りのない日中文化交流に捧げたいと思う。それゆえ劉禹錫の押韻を真似て、私の「座右の銘」をこのように定めた。
「新陋室銘」
屋不在高、有書(1)則名。
報(2)不在大、有誠則霊。
斯是陋室、惟吾痴心。
抬頭主席像(3)、俯首遊子吟(4)。
談笑有電脳、往来用伝真。
可以調主頁(5)、閲「人民」(6)。
無方寸之乱耳、得深夜之筆耕。
扶桑同胞事、神州手足情。
学子云:"何陋之有?"
注
(1)在日中国人文献資料センターの蔵書を指す
(2)「日本僑報」のこと
(3)文庫に掲げられた毛沢東像
(4)「在日中国人大全」および「中国人の日本奮闘記」原稿
(5)インターネットの各種ホームページ
(6)「人民日報」など国内外の出版物