短期集中マンツーマン講座
若林一弘(四川理工学院)
語学の鉄則はふたつある。もっとあるかもしれないが、とりあえず次のふたつを日々感じる。
ひとつは、語学習得でもっとも重要なものはモチベーションであること。語学と言わず、すべての学習の要はこれで、よい教師とは生徒の学習意欲を高められる人のことを言う。逆に、モチベーションさえ高められれば、それ以外の教師としての知識や技能は(まして免状などは)問題でないとも言える。
もうひとつは、外国語は授業だけでは習得できないということ。予習復習宿題をまじめにやっても、なお授業のみでは不十分で、授業以外のところで努力しなければならない。本を読む、アニメやドラマを見るなどもいいけれど、そういう受動的なことばかりでなく、能動的な活動も望まれる。
その授業以外の部分で学生が自主的に行動していればいいのだが、性格的にそれが苦手な学生や、正課外でそのことばを使う機会のない環境にある学生に対しては、課外活動の形で補うことが教える側に必要となる。オーガナイズされた形態でのそのような活動の代表的なものは、スピーチコンテストや作文コンクールである。特にこのふたつは、ネイティブスピーカーが力を発揮する場でもある。
作文の授業は正課にあるが、30人も40人もの学生がひとつの教科書を使ってやるわけだから、いわば「レディメイド」である。授業でやるのはどうしても文章の基本、書き方の基本で、それをなぞった課題の遂行ということになる。必要条件は満たしているとしても、最低限に近く、十分条件まで満たすものではない。課題の添削で教師は疲弊するが、その労力に見合うほどの効果があるとはとても言えない。
自由作文は、書く人ごとにそれぞれテーマから視点から内容から、一人ひとりの個性や経験によって異なってくる。その指導は、いわば「オーダーメイド」である。作文指導というからにはここまで必要だが、実際問題としてこれを多人数のクラスの全員に十分に行なうことは物理的に不可能だ。おざなりに終わってしまってもしかたがない。
そのきめ細かい「オーダーメイド」を可能にするのが、作文コンクールだ。コンクールだからテーマと字数は指定されるが、それ以外は応募者それぞれに任される。
スピーチコンテストや作文コンクールは、言うなれば「短期集中マンツーマン講座」である。
それは立体的に行なわれる。まず、学生がテーマに沿った作文を書いてくる。そのときは白紙に手書きで書かせるようにしている。字数は、大まかには意識するが、細かくは気にしないで。持って来たら、教師はまず語彙や文法の不適切な部分を直す。
だが、最初の原稿の問題はそれだけではない。日本人が日本語で書く場合もそうだが、書いている当人はよく知っていることがらなので、説明が足りないということがよくある。自分はわかっていても、他人が読むときには何のことかよくわからないという個所が必ずあるので、どういうことか説明させた上で、そこを補足させる。
また、語彙文法の誤り以前に、そもそも文として意味不明な箇所というのもしばしば見られる。何が言いたいのか本人に説明を求め、それを聞きながら朱筆を入れる。
結構布置についても考える。話の順番を入れ替えたほうがいいこともよくある。
大幅な書き換えが必要だと思ったら、話し合った上でそうさせることも多い。全然おもしろくない部分、的外れだと思われる部分はばっさり切り捨て、おもしろい部分をふくらませる。
関連事項や表現で学生が知らなかったり漏らしていたりするものがあったら、それを調べてこさせるということもする。
つまり、ディスカッションを重ねながら、学生と教師が一対一で向かい合い、著者と編集者の関係で作っていくのである。学生は教師と話し合い、自分の意図を説明し、指摘に対して対応しなければならない。書くだけではないのだ。資料に当たって調査検索もすることになる。立体的とはそういう意味である。いい勉強になるし、自分の書いた文章を教材として行なわれるのだから、さらに効果的だ。
だいたいできあがったら、原稿用紙に書かせる。それで字数が確認できるから、そこでまた削除補筆をさせる。字数も適当な範囲になったら、パソコンでの浄書となる。書いては直し、書いては直しを繰り返して、だいたい5回ぐらいは書き直すことになる。
このごろはメールに添付して応募する形式が多いが、最初は必ず手で書かせる。それは、手に文を覚えさせるということのほかに、字の練習というか確認もしたいからだ。中国人の場合は漢字の誤りはまずないが、簡体字を書いてくることが多いので、日本の字体をしっかり入れるのは意味のあることだし、ひらがなの癖字もこの際に直す。個体発生は系統発生を繰り返すというか、「た」を「太」のように、「あ」を「安」の崩し字のように書く者が多くて、なるほどと感心するのだが、しかしもはやひらがなの字体は確立しているのだから、妙な癖字はやはり直す必要がある。
これだけやれば、整った作文になる(おもしろいかどうかはまた別だが)。
私が個人的に注意していることは、嘘を書くな、話を盛るな、ということだ。嘘は言うまでもなく言語道断だが、よい結果を得るためには「化粧」は必要かもしれない。だが、入賞が目標ではない。あくまで勉強のためである。そもそも文章を書くということ自体が、ある視角を持ち、取捨選択をし、再構成し配列する作業である以上、どうしても「作文」(作りごとという意味での)であるわけだが、常識的に守らねばならぬ線はある。
スピーチコンテストは学生の能力を伸ばすうえで非常に有用だが、大きな欠点がひとつある。思うような結果が得られなかった学生のモチベーションが下がってしまうことがときどきあるのだ。これに気をつけなければならない。作文コンクールは、その場で審査結果がわかるわけではなく、結果発表まで時間があること、聴衆の面前で行なわれるのではないことで、スピーチコンテストほどこの点の問題があるわけではないが、留意しておくべきではある。
どんなテーマにせよ、学生は自分の経験に基づいて書く。だから添削と話し合いを繰り返すうちに、その学生をよく知ることができる。それが教師の報酬である。
略歴
若林一弘、四川理工学院日本語学科教師。1958年生、早大卒、ロシア・ウズベキスタン・アルメニア・トルコ・インド・河南理工大学で日本語を教える。