初代東京特派員劉徳有氏(右二)、劉延洲氏(左一)と呉学文氏(中)、駱為龍氏(右一)、蒋道鼎氏(左二)二〇〇四年八月十日北京にて by段躍中(無断転載禁止)
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日本僑報電子週刊 第564号 2006年6月14日(水)発行
http://duan.jp 編集発行:段躍中(duan@duan.jp)
■段躍中日報 http://duan.exblog.jp/■
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★追悼蒋道鼎氏特集★
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■目次■
日本の新聞に掲載された訃報記事
蒋道鼎さんの略歴
遺作転載: はじめての常駐記者時代の思い出
―日本僑報社に寄せられた日中記者交換40周年の回想―
回想/実は私は蒋道鼎氏の喫煙の師でもあった/王泰平
『中国人特派員が書いた日本』詳細
『春華秋實―日中記者交換40周年の回想』詳細
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日本の新聞に掲載された訃報記事
蒋 道鼎さん(しょう・どうてい=中国紙・光明日報の元東京支局長)
は11日、肺がんで死去、66歳。告別式は15日午前11時、北京市
の八宝山革命公墓で。
中国安徽省出身。69年に中国の国営新華社通信の東京特派員として初
めて日本に赴任。その後、82年から3度にわたり光明日報の東京支局
長を務めた。日本駐在経験は約16年に及ぶ。引退後も中国中日関係史
学会の副会長や中日新聞事業促進会の役員として日中両国の架け橋役を
担った。 2006年06月12日19時31分 朝日新聞より
蒋道鼎氏(しょう・どうてい=中国紙光明日報元東京支局長)11日、
肺がんのため北京市内で死去、66歳。安徽省生まれ。国営通信の新華
社特派員、光明日報支局長として計4回、延べ16年にわたって東京で
勤務した知日派記者。2001年に帰国後は光明日報外事弁公室主任な
どを歴任した。(北京、共同)
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蒋道鼎さんの略歴
蒋道鼎(しょう・どうてい) 男 一九四〇年、安徽省巣県生まれ。一
九六四年大学卒業後、新華社、光明日報で日本報道に関わる業務に従事。
一九六九年一月から、四回にわたって東京に常駐。現在中国中日関係史
学会副会長。主要な著作に、『企業経営者になるには』、『レーガン政
権』、『日本知識辞典』(共編)などがある。
(『春華秋實―日中記者交換40周年の回想』より)
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日本僑報社に寄せられた日中記者交換40周年の回想
はじめての常駐記者時代の思い出(一部)
蒋道鼎
一九六九年、中国では「文化大革命」が炎のごとき勢いで展開されてい
た時期であり、日本では佐藤政府が気違いじみたほどの親米反中政策を
推進していたため、中日関係はひどく悪かった。当時、廖承志弁事処東
京聯絡処の代表も中国駐日常駐記者も相次いで帰国し、ついには廖承志
弁事処東京聯絡処は代表の許宗茂だけになり、中国駐日記者も劉徳有し
か残っていなかった。
当時の両国間の取り決めによれば、中国駐日人員の逗留ビザ期限はたっ
た一八〇日で、そのまま延長できるとはいえ、やはり一八〇日しか延長
できなかった。つまり、連続三六〇日しか逗留できず、期限が来たら出
国し、新たにビザを申請して入国しないと日本で業務を続けることがで
きなかった。許宗茂と劉徳有のビザの期限が来て、もし交代人員が彼ら
の帰国前に日本に着けないとなると、中日両国の細い細い連絡道――廖
承志弁事処東京聯絡処と中国駐日記者――は少なくとも形式上断たれて
しまうことになるということで、私はつまりこの「千釣一発」の時、一
九六九年一月初め、急遽東京に赴任することとなったのだ。
警察の尾行
中日両国は「一衣帯水」、海を隔てて相望む、のであるけれども、当時
は、中日両国の人々の往来は香港を経由しなくてはならなかった。その
理由は、ひとつには、当時中日間にはまだ直航便がなかったこと、いま
ひとつは、二国間に外交関係がなかったことがある。中国大陸には日本
の外交機関が無く、日本政府も中華人民共和国外交部の発行するパスポ
ートを認めていなかった。そのため、中国の人間が日本に行くには、香
港で、パスポートに代わるいわゆる「渡航証」を作らなくてはならなか
った。こうして、北京を出発し、広州を経由して香港に入り、「渡航証」
の申請が順調に片付いても、日本に至るまでに少なくとも三日はかかっ
たのだった。
私は「旧社会に生まれ、紅旗のもとに育った」世代の人間である。幼い
ころは農村で育った。解放初期の中国の農村では、警察というものをそ
もそも見かけることがなかった。中学校に上がって県政府所在地に行く
ようになったが、当時の県政府所在地はまだ小さな町で、たまに一、二
台のトラックやジープが見られるだけで、乗用車はほとんど見られなか
った。たとえ最もにぎやかな繁華街だったとしても、警察による交通整
理の必要もなく、青少年時代の警察の印象といえば、戸籍を管理するか
悪人を逮捕するかというくらいのものだった。しかし、東京に着いて、
異国他郷で生活してみれば、家をでるなり尾行され、これにははなかな
か慣れなかったし、やはり妙な話である。とりわけ取材の時は、警察が
自分のすぐ横に立っているか、近くで看守していて、本当に落ち着かな
かった。
廖承志弁事処と高碕事務所は、一九六四年四月十九日に調印した「新聞
記者交換に関する会談メモ」で、中日双方は相互に常駐記者を8人に限
り相互に派遣すると規定した。当時、中国の報道機関で外国に記者を派
遣駐在させられるのは実質新華社一社だった。しかし、日本と対等にす
るため、また日本の報道機関の「クラブ」式の取材の習慣に合わせるた
め、駐日記者は、たとえ駐日記者を派遣しているのが全て新華社であっ
ても、ニュースが全て新華社で発信されるものであっても、各記者たち
は異なる新聞社や通信社の名義を使った。私は初めての日本常駐の時、
上海「文匯報」の名を使った。また、駐日記者が一つの機関として対外
的に使った名称は、「中国駐日記者団」であった。
初めて東京で常駐した当時、中国駐日記者団の事務室は、渋谷区と目黒
区に接する恵比寿のビルにあり、廖承志弁事処駐東京聯絡処と共同で使
っていた。俗に「孫平化宿舎」と呼ばれたこの建物は、馬蹄形をしてお
り、両側がそれぞれ廖承志弁事処駐東京聯絡処と中国駐日記者団の事務
室で、中間は共同の厨房と食堂、馬蹄の中心は小さな庭であった。我々
の宿舎もその棟内にあった。付近一帯は住宅街で、周囲はびっしりと民
家が軒を連ねていた。門の前はS字の細い道で、車を出すのにとても不
便だった。我々常駐記者を監視する警察の宿直室がこの道の出口の向こ
うにあり、車庫から二、三十メートルくらいしか離れていなかった。
一九六〇年代末から七〇年代初めの日本では、学生のサボタージュや労
働者のスト、米軍基地反対闘争、日中友好の要求など、色々な形で民衆
運動が盛んで、あちこちで行われていた。東京に入って最初の数ヶ月の
間、駐日記者は私一人であったので、外出時にあわてて、携帯の必要な
証明書や物を忘れないように、いつでも取材の準備をしておかなくては
ならなかった。私は出張に必要な物を出張専用の鞄につめておいた。当
時の日本政府の規定では、東京都と神奈川県以外では、駐日記者は取材
の二十四時間前に申請をしなくてはならなかったのだが、この規定は駐
日記者には大変過酷であった。なぜなら、二十四時間後に日本各地でど
んなことが起こるか、我々が取材にいくべきなのかどうなのか、どのく
らい時間が必要かなど、予測することは困難だ。幸い、当時我々は直接
警察とやりとりしていたわけではなく、取材申請などは全て高碕事務所
を通して行っていたので、高碕事務所が我々の代わりに処理してくれた。
その後、我々も賢くなってゆき、取材日時が早めにわかっていても出発
直前になってから高碕事務所に電話申請したり、出発後に事務所の人間
から高碕事務所に電話してもらって事後報告することもあった。高碕事
務所は事件の突発性をわかってくれていたので、我々が取材に出る直前
に申請したり出発後に事後報告しても、黙認してくれ、二十四時間前の
申請というこの制限は実質上我々に対する制約にならなくなった。高碕
事務所がどのように警察とやりとりしたのかは、我々には知る由がない。
警察の宿直室と中国記者団は目と鼻の先で、警察が我々の動向を知るた
めに、彼らに提供された基本環境であった。電話の盗聴も、警察が事前
に我々の活動日程を知るための重要手段であったことは言わずと知れた
ことである。我々が車庫に行って車のエンジンをかけたとたんに、宿直
の警察が現れて車に乗り込み、我々の車が道に出れば、彼らの車もぴっ
たり後をついてきた。私は初めて東京に来た時まだ三十歳になっておら
ず、記者団の運転手をしていた華僑の青年と変わらない年齢だった。い
たずら心から、我々は警察に「かくれんぼ」を仕掛けたことがある。こ
の運転手はタクシーも運転したことがあり、運転が上手いだけでなく、
道をよく知っていた。ある時、大通りから突然路地に入ったため、警察
は急なことに対応できず前に進むしかなく、我々の車にまかれてしまっ
た。またある時は、電話もせず、車も出さず、夜間に突然外出したため、
大慌てでズボンを手に持ったまま車に乗り込む宿直の警官の狼狽する姿
が見えた。
警察が駐日記者に対して行う尾行は、地区によって分業されていた。我
々が東京以外の所に取材に行く時はいつも、まず東京の警察が我々を駅
や飛行場まで「送って」くれて、目的地では現地の警察が「迎えに」来
てくれた。もし乗ったのが新幹線だったなら、各停車駅で必ず二名の警
察官が我々のいる車両の停まるホームにぴったり立っていて、我々が途
中下車したりしないか確認した。ある時、私は廖承志弁事処の代表、王
作田と一緒に出張した。米原というところで乗り換えしなくてはならな
かったのだが、米原は交通要所で構内が複雑で、また混雑もしていた。
そのため、我々は列車を乗り違えてしまった。しばらくして、警察が高
碕事務所を通じて確認を入れ、二名の中国人はどうして「蒸発」してし
まったのだ? と、あちこち捜されることになってしまった。
東京に着いたばかりの時、すでに劉徳有のビザの期限が切れそうだった
ので、引継ぎは大変あわただしいものであった。ある日の昼、我々は六
本木の「廬山飯店」という中華料理店で共同通信社の友人をもてなす予
定だった。我々が店に着いた時、店の主人が、「今日はお客が多くて、
臨時に部屋を区切った場所しか用意できない、また、すぐ隣の部屋は防
衛庁の人々が予約している」と言ってきた。劉徳有はその場で浜松町の
中華料理店「浜園」に場所を変えることを決めた。この急な変更を、尾
行していた警官たちは予測できず、非常に緊張した事態となった。まる
で中国人記者が報道と関係の無い活動を行っているという「証拠を掴も
う」とでもするようだった。おかげで、我々が廬山飯店から浜松に向か
う時に、追跡の警察の車が特別ぴったりとくっついていたため、我々が
乗った車が十字路で赤信号にあたって停まった刹那、警察の車がドーン
と音を立ててぶつかってきた。これは私にとって生まれて初めての交通
事故であった。しかも常駐記者として日本に来て、警察にぶつけられた
のだから、ひどく記憶に残っている。温厚な劉徳有も非常に憤慨し、そ
の場で警察に強く抗議し、また、高碕事務所を通じて警察と交渉した。
すると、警察はきちんと筋を通し、高崎事務所を通じて謝罪し、全ての
検査及び治療費を負担すると言ってきた。
日本の警察の尾行監視は我々に不愉快な思いをさせ、取材や交流活動に
面倒や障害をもたらしたものではあったが、今思えば、当時中日両国間
には正式な外交関係がなく、日本の右翼反中勢力がはびこっていたのだ
から、客観的に見れば、我々の安全にも役立っていたのだ。また警察官
個人について言えば、彼らは仕事に対してまじめで責任感があった。と
ても大変だったと思う。その後私が再び東京に赴任した時には彼らと食
事でもして労をねぎらいたいと思ったものだが、時は移り、彼らも各々
の任務があり、実現されないままとなってしまったのだが。
発信の苦労(略)
忘れられない取材(略)
(二〇〇四年八月 北京にて)
(日本僑報社訳 担当横堀幸絵)
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蒋道鼎さんに関する回想/王泰平 恵比寿の「大家族」
実は私は蒋道鼎氏の喫煙の師でもあった
羽田空港を後にし、茫漠たる夜のとばりの中、高速道路を駆け抜けると、
ほどなく「家」に到着した。ここは渋谷区恵比寿三丁目三五番地二三号、
そこで皆はここを「恵比寿」と呼んでいた。このあたりは高級住宅街で、
隣にはサッポロビールの工場があった。その傍らの道を通るときには、
酒の香りをかぐことができた。
この家はもともと三菱鉱業の寮があった所で、敷地面積は約二千平方メ
ートルあった。一九六四年東京事務所開設後、社屋を建てる土地を探し
ていた時にここを選んだ。ただし法律上、東京事務所は不動産を購入す
ることができなかったため、首席代表である孫平化の個人名義で購入手
続きを行った。一九六六年冬、工事が始まり、一九六七年七月に完成し
た。土地建物を含め、二億円であった。
ここは通称「孫平化宿舎」とも言い、馬蹄形のグレーの建物だった。地
上三階建てで、事務所と住居に用い、地下には駐車場と機械室があった。
建物の間にある中庭には、青々とした緑が茂っていた。全体が高く白い
塀で囲まれ、塀の上には剣先が外に向いた鉄製の忍び返しが取り付けら
れていた。
仕事上便利であるため、この建物が完成すると、東京事務所の所員と記
者は全員文京区小石川伝道院前の川口アパートから引っ越してきた。最
初の頃はにぎやかであったが、後には文革に参加するため、皆次々と帰
国していき、建物の中は全くがらんとしたものになってしまったという。
趙自瑞氏と私が来たときには、王作田と蒋道鼎の両人だけが単身赴任で、
ニセ無頼漢よろしく二階に住んでいた。一階には岡本さんというコック
が住んでいた。この人は中国で捕虜になったのだが、八路軍に加わり、
後には解放軍の大隊幹部にまでなったという伝説的な人生の持ち主であ
る。一九五八年帰国したものの、常に監視され仕事も見つからず、生活
に困窮していた。東京事務所設立後、日本側から人数制限を設けられて
いた関係上、コックを連れてくることができず、彼に手伝ってもらうこ
とにした。これは彼にとっても生活上の助けになった。岡本さんは帰国
後日本社会から隔絶した生活をおくっており、恵比寿に来てからは、こ
こを自分の家としてめったに外出することはなかった。反対に何歳か年
下の妻が三日にあげず、手伝いにやってきては、我々に日本料理を楽し
ませてくれた。
岡本調理師の他には、東京華僑総会が我々の仕事を助けるためにと、多
くの青年を寄こしてくれた。私が来たときには、劉美河、劉美武兄弟、
厳華新、陳碧蓮の婚約者同士、符易亨、符美和兄妹、李香玳、鮑雪平、
陳啓星、陳明照、後に劉美武の夫人となった陳世智がいた。東京事務所
と記者団が設立されたときには、楊敬子(楊順花)、張立、繆恵英、霍
関樹、陳東得、張肖娥、林秀雄、劉恩順たちも仕事を手伝っていた。
この青年団は、恵比寿の「家」では、欠くことのできないメンバーであ
った。熱い愛国心を胸に秘め、運転、タイプ、翻訳、電話の応答から会
計係として総務を引き受けてくれたり、客人の接待やら、安全管理まで
とやらない仕事はなかった。しかも決して手抜きをせず、進んで大変な
役割を引き受け、なじられても気にかけなかった。仕事がスムーズに運
んだのは彼らの力によるところが大きい。彼らの協力があったからこそ、
仕事の効率が非常によかったと言えるだろう。例えば劉美河は私の外出
には常に従ってくれた。二人で朝から車で数時間かけて郊外へ取材に行
き、午後はまた都内の活動に参加し、夕方にはKDDまで車で行って原
稿を発送したこともある。夜は機械室の点検、調整等をしなければなら
ず、一日十数時間働くことは日常茶飯事だった。
また、我々の記者室で働いていた符美和さんは、非常に優れたアシスタ
ントだった。聡明で手際がよく、気転も利く。客人の接待や電話の対応
から内務管理に至るまで、何をするにしても文句のつけようがなかった。
私の書く字は、もともと「龍が飛び鳳凰が舞う」ようなもので全く読み
づらいものだった。急ぎの原稿のときは流れ作業となって、書いている
字はますます飛び跳ね、後で見返すと、本人の私でさえ何が書いてある
のかわからなくなってしまう。しかし彼女は私の字を熟知しており、い
つも原稿を書き終えた時には、電報原稿も打ち終わっていたといったし
だいである。
青年団はみんな横浜市に住んでおり、通勤には二時間ぐらいかかってい
た。しかしどんな天気の時でも、常に早朝から出社していた。またしょ
っちゅう夜の当直が回ってくるので、恵比寿の宿舎に泊まることも多か
った。こうした働き方は、日本では非常に珍しいものだったと思われる。
東京に着いてからしばらくすると、記者は蒋道鼎氏と私の二人だけにな
ってしまった。我々は向かい合って席に着いており、事件が起こると互
いに相談しあい、原稿も直しあった。来客の応接や取材などはいつも一
緒だった。実は私は蒋道鼎氏の喫煙の師でもあった。初めは私がタバコ
を吸うごとに彼にも勧めていた。ところが思いがけないことに、彼は間
もなく私が勧める「勧誘煙」は全く吸わなくなり、自腹を切るようにな
った。またしばらくすると、彼のタバコは病みつきになり、私の量を超
えてしまった。この時になって初めて悪いことをしてしまったと思った
が、既に後悔先に立たずになっていた。
その後『人民日報』の李守貞記者、『北京周報』の耿墨学記者が相次い
で着任した。第一陣で着任していた『光明日報』の劉徳有記者は、首席
記者として元の職場に戻り、我々年の若い者は、首席記者のもとで仕事
をすることになった。記者団の全員がまた、東京事務所の指導を受ける
ことになっていた。東京事務所と記者団の仲間達とは、同じ釜の飯を食
う間柄で、仕事の上でも、分業しあったり、協力し合ったりと、以心伝
心のチームワークで、まるで「同じ塹壕にいる戦友」といってもよかっ
た。
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『中国人特派員が書いた日本』【内容紹介】など
記者交換協定が締結されて三十五周年、その間に中国から日本に派遣さ
れた駐在記者は累計百五十人に達する。本書は、彼らが東京で働き、生
活していた頃の思い出を書いたものもあれば、日本の友人の追憶、ある
いは日本社会を観察し、分析した文章などで構成される。三十五年来の
初の一冊、日中関係研究に不可欠の生証言である、知日派達の日本観を
知る絶好の一冊。
◆序 文:中国駐日本国特命全権大使 陳 健
◆社会編
孫東民: 昭和から平成へ――昭和天皇崩御
蒋道鼎: 日本を揺るがした婚約発表
詳細http://duan.jp/item/08.htmlへどうぞ
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『春華秋實―日中記者交換40周年の回想』【内容紹介】など
この40年間に、両国のたくさんの「特派員」が現地の政府や社会各界
から協力を受け、支えられつつ、困難を乗り越え仕事に励み、たくさん
の記事を書いてきました。それらの多くの記事は、両国の友好を守り、
客観的で公正、真実を求めるものであり、両国とその国民の相互理解と
交流を増進し、国交回復や平和友好条約締結を促し両国の友好協力関係
を不断に発展させることに大きな役割を果すものでした。彼らは、その
一時代の歴史の記録者というのみならず、両国関係の目撃者でした。
―趙 啓正・中国国務院新聞辧公室主任の記念講演より
■巻頭特集
駐日中国大使館主催の記念会・国務院新聞辧公室主催の記念会
■第一期(一九六四~一九七二)
大越幸夫 日中記者交換四十周年を思う
菅 榮一 毛沢東社会主義・中国の風景
劉 徳有 「留年」させられた十五年特派員生活・ノート
劉 延洲 楢川村とその老村長
日本での想いを託した詩十首
蒋 道鼎 はじめての常駐記者時代の思い出
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王 泰平 外交官特派員の回想
秋岡家榮 周総理を身近かに感じた五年間 日中国交回復へ巧みなタクト
福原亨一 文革の波にもまれて 正常化の前と後
塩島俊雄 混迷の時代の特派員体験
藤川魏也 老照片 六十年代の北京
中島 宏 ピンポン外交・ニクソン訪中・日中国交―私の中国取材回想
吉田 実 日中国交正常化交渉を振り返って
詳細はhttp://duan.jp/item/015.htmlへどうぞ