22日~25日まで、広松渉編『ドイツイデオロギー』中国語版の出版を記念して、南京大学中日文化研究センターで、ドイデと広松哲学についての学会が開催され、中国各地から研究者が参加しました。日本からは、広松邦子夫人、小林昌人氏(岩波文庫の広松版『ドイデ』の編集者)、西原和久氏(名古屋大学)、吉田憲夫氏(大東文化大学)、日山紀彦氏(東京成徳大学)、砂川裕一氏(群馬大学)、忽那敬三氏(千葉大学)、高橋順一氏(早稲田大学)、大下敦史氏(『情況』出版)、星野智氏(中央大学)のそうそうたる広松シューレの諸氏が参加されました。この中に「宇野教条主義者」たるこの私めが飛び入りしたわけであります。まさに醜いアヒルの子状態だったわけですね。
さて、22日は福州発8時20分の便に乗り、10時半ごろ南京に到着。ただちに会場兼宿泊場所のホテルに直行しました。早く着きすぎました。日本の方々は誰も到着していません。中国側の研究者や接待係の哲学科の学生(どういうわけか可愛い女の子が多)と四声のめちゃくちゃな中国語で雑談して時を過ごしました。なんとその女の子の中に福州出身の子がいました。「どこに住んでるの」とか、「三年福州にいるよ」とか、他愛もない会話をしましたね。聞くと、日本の方々は夜に到着するとのこと。しかたがないので、ホテルの中をぶらついたり、街を散歩したりしました。街ではほとんど「反日」の雰囲気は感じ取ることができませんでした。南京に来る日本人はほとんど虐殺記念館に行くから、歴史認識を持っている人たちなのだろうと、南京の人たちが思ってくれているからかもしれません。
日本側代表団は6時半ごろ到着しました。ロビーで出迎えてご挨拶。広松邦子夫人にお会いした時はさすがに緊張しましたね。すぐに晩餐会ということになりました。中国側の出席者は、哲学科の先生方と日本語科の先生、彭ぎ先生と趙仲明先生と副学長の方でした。この彭ぎ先生と趙仲明先生は広松著作集を訳されている方で、とくに、彭ぎ先生は今回の目玉である『ドイデ』の翻訳者です。こうしたメンバーから分かるように、中日文化研究センターは哲学科と日本語科のスタッフから成り立っていると言ってよいでしょう。残念ながら今回の立案者である張一兵副学長は北京で用事があるということで、参加されませんでした。
翌日の学会から参加ということでした。宴会の後、二次会ということで、彭ぎ先生とともに飲み屋に行きました。みなさん、彭ぎ先生のご苦労を賞賛していました。とにかく、専門でもない、しかもあの煩瑣な原文を訳されたことは、驚き以外の何物でもありません。また、出版社や印刷工場の方の苦労も想像できます。とにかく「すごい」の一言です。
23日の9時半から学会が始まりました。北京から張一兵副学長も戻って来ました。まずは、『ドイデ』の出版記念のあいさつです。南京大学の関係者やマルクス・レーニン研究所のML全集翻訳責任者などからの祝辞のあと、広松夫人があいさつし、中国側のご苦労をねぎらう言葉がありました。昨日も話しましたが、本当にたいへんな作業だったと思います。
中休みの後は、今回の目玉とも言える小林昌人氏の発表でした。もちろん、『広松版ドイデ』の意義についてです。小林氏が「広松版ドイデは新MEGA版が出ても、その意義を持ち続けるだろう」と力強く言い切った時、私は中国側の研究者の方を見ました。目をキラキラと輝かせている研究者が何人かいました。未知のことを知った時の学徒の目は世界共通ですね。もう一人の発表者は北京大学の先生でした。「マルクスは近代的科学=唯物論的認識の土台に立って、自分の理論を構築した」という趣旨の発表でした。常識的見解と言えばそれまでですが、私は、広松氏の「マルクスは近代科学観そのものを乗り越えた」という見解は行きすぎではないかと感じていますから、それなりに納得はできました。
張一兵副学長等との昼食の後、吉田憲夫氏の「疎外論から物象化論へ」と西原和久氏の「社会行為論」の発表があり、これは中国側との議論が期待できるぞと思ったら、この後は通訳が付かないからなんと討論はないとの話。通訳の方の負担がたいへんだからでしょう。でも、こうした中国側にとって未知の見解について議論をすることこそが学会の意味だと思うのですが、いかがでしょうか。日本側代表団はそれぞれ観光へ行きました。私は「通訳」としてお供。私が「通訳」だなんてとんでもない話ですが、まあ、「どこ行く」「そこ行く」「いくらだ」レベルですから、まあなんとかなりました。この後、夕食後皆さんと南京の繁華街へ。その時にとてもおもしろい話がありました。これはまた「番外編」ということでお伝えします。
翌朝代表団は帰途につきました。彼らを見送った後、私は『存在と意味』の翻訳者であった何鑑先生のお墓参りに行きました。墓前で「翻訳が完成するように私もお手伝いします」と何鑑先生に誓いました。私はもう一泊することにしました。この間、中国社会科学院哲学研究所の魏小へい先生と面識になり、彼女の論文を日本語に翻訳して『情況』に送ることを約束しました(もうすでに翻訳作業を開始しています)。その他の先生方とも下手くそ中国語と筆談ででなんとか交流することができました。
こうして一泊した後、私は25日に福州に戻ったわけです。(中野英夫)