夏になると、思い出すことがある。
あれはもう20年ほど前になるのだろうか。
中国でえびの養殖事業をしたいというグループを引率して上海から汽車で南京に向かい、観光・宿泊のあとクルマで江蘇省北部の港湾都市・連雲港へと出かけたときのこと。
道すがら周恩来総理の生まれ故郷―准安で竣工したばかりの記念館を参観、昼食のあと連雲港に向かったはずであったが、2時間くらい経つと綿畑で覆われた人気(ひとけ)のない農村地帯を走っていた。連雲港ははじめてのドライバーもさすがにこれはおかしい、と周辺を見回したが尋ねる人も居ない。昼のビールのせいか、一同もよおしてきてクルマを停め、一斉放射におよんだ。そのとき上海から同行の通訳にこのあたりは抗日戦争のゲリラ基地、早くしないとパルチザンに急所を狙われるよ、と冷やかされたが、それからが大変であった。
カーナビはおろか、携帯電話もないころのこと。頼りにするのは地元の人の道案内、やっと綿畑を脱出して地道に出たところで見つけた農民に聞くと、右の方を指差して「ハイヨー、イーパイトゥコンリ」―あと100キロくらい、という。さらに2時間、すでに陽(ひ)は西に傾き始めている。ドライバーは焦りぎみにやっとつかまえた自転車のアベックにたずねると、ふたりとも前方を指差して「イーパイトゥコンリ」と声をそろえて合唱。道の両側は干からびた畑のみ、このふたりはどこへ帰るのか・・・。
ようやく見つけた数軒のあばら家にはすでにランプが灯り、道端で親子が夕食中であった。ここでも「イーパイトゥコンリ」、彼らは行ったことがないのだ。
遠くだよ、ずっと先だよ、と言っていたのであった。
『蟻の兵隊』
いま東京と大阪で、池谷薫監督のドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」が上映されている。
同監督は数年前になるか、NHKで放映されたドキュメンタリー「延安の娘」で話題を呼んだが、今度の作品は山西省を舞台にした日本兵の話。
日本の敗戦で武装解除されたはずの「蟻の兵隊」たちが、上官の命令で国民党軍に組み入れられ、共産党の軍隊との内戦に利用された。そして、長い抑留生活のうえ帰国すると“逃亡兵”扱い。いまも体内に残る無数の砲弾の破片が突きつける、「蟻の兵隊」の執念が驚くべき残留の真相と戦争の実態を暴いていく・・・・。
先日このチラシを見た元上海サントリーのIさんが、連雲港にも「蟻の兵隊」が来たことがありますよ、とわたしに教えてくれた。
わたしたちが「イーパイトゥコンリ」と指差す方向を信じて、やっとの思いで到着した連雲港でIさんは合弁企業「花果山」ビールの工場を立ち上げ中であった。かれが現地に赴任中の数年の間に、「徐州会」の元軍人一行が何回か連雲港に来て、お目にかかったことがある、“逃亡兵”か“志願兵”か、つまびらかな事情は存じ上げないが、敗戦後国民党軍に編入されて八路軍と戦い、1948年末の徐州戦役で国民党軍の敗北が濃厚になったころ、連雲港から船で“復員”したらしいとのこと。
徐州はむかしもいまも、交通の要衝。
連雲港を起点に西安からシルクロードを経てロッテルダムまで通じる隴海鉄道と大動脈(北京―上海)が交わる。日本軍と国民党軍はこの拠点奪還を争い(火野葦平「麦と兵隊」ほか、♪徐州、徐州と軍馬は進む・・・)、日本の敗戦後は国民党軍と共産党軍が大会戦を展開して内戦の雌雄を争った。急所を狙うパルチザンと笑いを誘った通訳のはなしは、このあとの戦闘ではなかったか?
日本がポッダム宣言を受諾したとき、中華人民共和国はまだ成立しておらず、中国の各地で日本軍の降伏を受け入れ、武装解除したのは国民党の軍隊であった。
お座敷列車
88年の9月、わたしは列車で杭州から上海へ向かっていた。
台湾で戒厳令が解除されたのはその前年の7月、大陸訪問が解禁されたのはその年の11月であった。先日台湾から上海へ直行便が飛びたったが、貨物専用機とはいえまるで夢のような話である。
そのとき、台湾からは「親族訪問」という枠はあったが、一年足らずですでに形骸化され、列車内は観光ツアーの“台湾同胞”男女で満席、お座敷列車化するには半時もかからなかった。
わたしどもは同行ふたり。
向かいの席にいたアモイから添乗の旅行社の小姐と世間話をしていると、その横に座っていた男性が突然話しかけてきた。
「ニホンノ カタデアリマスカ!? ボクハ ショウワ11ネンウマレ、ニホンゴ ワスレタ、ヘタデスガ・・・・」
彼の語るところによると、このグループは台中の新竹から来た生粋の台湾人だけの大陸観光団。
わたしが「祖国訪問はどうでした?」と聞くと、「祖国じゃない、でも安心した、生活レベルがまったく違う」という。「祖国統一」に話題を向けると、中国はひとつ、でも『国共』の政治の道具にされるのは困る、時間をかけ、交流を通じて双方の人民が話し合い、納得ずくできめることと話していた。
いつの間にかお互いに酒を酌み交わし、列車内は「東京音頭」の大合唱になっていた。
あれから間もなく20年になろうとする。
台湾の投資も含め外資の進出で中国の生活レベルはあがってきている。
ひとりあたりのGNPでみると、85年では中国は台湾の百分の一であったが、2000年(GDP)では6.5%、03年では10%の水準までに追いついている(「世界の統計」)。昨年の上海市民レベルで見れば、すでに台湾の55%の7千ドルにまで迫ってきているから、新竹の国民学校の“同学”はこの現象をどうみるだろうか。
第三次国共合作?
昨年末 上海のドン-汪道涵が90歳で逝去した。
元上海市長の肩書きではなく海峡両岸関係協会会長として報じられたが、昨年の春、台湾国民党の連戦主席、親民党の宋楚瑜主席の訪中時、相次いで会談した“時の人”であった。
この協会は中国の対台湾窓口機関、これに呼応する台湾の対中国窓口機関-海峡交流基金会の代表であった辜振甫理事長(05年1月逝去)は、台湾プラスティック創業者の王永慶と共に台湾財界を代表する大立者、十余年前にシンガポールで「汪・辜」会談を実現。その後北京や大阪(APEC開催時)で江沢民主席(当時)と会談して、台湾企業の対中投資拡大の道筋をつけている。ふたりの長男はそれぞれ上海に進出、江沢民の長男などと事業を展開して“上海グループ”を支える金庫番?にもなっている、という。
すこし資料は古いが、台湾の対中投資を数字で見てみよう。
2002年までの累計契約件数は世界全体の対中投資の13.1%で香港についで第2位(55,673件)、契約金額は7.4%で香港、アメリカについで第3位(614.6億ドル)、契約実行金額は香港、アメリカ、日本につぐ第4位の7.5%(334.3億ドル)となっている。この投資件数は台湾の対外投資件数全体の74.9%に達しており、いかに台湾企業の投資が中国に傾斜しているかを物語っている(03.7「エコノミックレビュー」)。2000年前後からその投資の波は広東省から上海周辺におよんで―とりわけ蘇州市、昆山市、呉江市には約4千社と集中、そのほとんどがIT関連の企業である。
蒋経国の死後、「大陸反攻」のスローガンは李登輝によって取り除かれ、台湾の民主化が進んで国民党は総統選で二連敗、民進党の陳水扁政権が続いている。昨年春の台湾野党首脳の北京詣は、この守勢を奪還、次回選挙での復権を狙う根回しであったろうが、中国側はこれをどう受け止めたのであろうか。
昨年9月の「抗日戦争勝利60周年記念」集会で、胡錦涛主席はつぎのように述べている。
「中国国民党と中国共産党の指導する抗日軍隊は、それぞれ正面戦場と敵後方戦場の作戦任務を担い、共同で日本侵略者に抵抗し、反撃を加える戦略態勢が形成されました。国民党軍隊を主体とする正面戦場では一連の大きな戦争を組織し、とくに全国抗日戦争の初期、・・・・日本軍に手痛い打撃を与えました」(「北京週報」05年35号)。
これは第二次国共合作の時期であり、抗日の正面戦場での国民党軍の実績を歴史的に評価した発言である。
こうした歴史評価の見直しは、その後共青団(胡錦涛主席の出身母体)中央機関紙『中国青年報』の付属週刊誌『冰点周刊』に引き継がれ、さらに台湾の作家・龍応台のエッセー「あなたがたぶん知らない台湾」(日本の台湾統治の再評価)、「ある主席の三礼」(国民党の「白色テロ」に対する馬英九主席の謝罪)を掲載・紹介した(「選択」7月号)。
こうした流れのあとに、2月の『冰点周刊』の停刊、編集長の更迭事件が発生するのであるが、元編集長の李大同はその内情を暴露、6月には日本で日中対訳本『「氷点」停刊の舞台裏』(日本僑報社)が出版されている。
メディアの規制をめぐるうごきはまだまだ続きそうである。
一百多公里
7月中旬 台湾国民党の馬英九主席が来日、ポスト小泉候補などの政界有力者と懇談、国民党の対中融和路線に理解を求めた。中国との統一問題については「現在は条件が整っておらず、統一を考えるのは非現実的で、現状維持が適切だ。中国が自由、平等で民主的な国家となることが条件だろう。統一のプロセスが台湾人民の同意のもとで行われることはいうまでもない」(『産経』7月11日)と述べている。
台湾の対中投資の流れと交流はとどまる事はないだろうが、その先の「ひとつの中国」=「一国二制度」に行きつくには、まだまだ「イーパイトゥコンリ」の道のりがいるだろう。新竹の“同学”が安心する「国共合作」には、大陸の「民主化」が前提になるのはいうまでもないが、その方向さえ確認できれば、わたしたちのクルマのように、たとえ時間がかかっても最終的には目的地に到着することができる。「イーパイトゥコンリ」の道すがらにはまだまだ「民主化」へのステップが立ちはだかっているのである。(2006年7月23日 記)(初出「日本ミシンタイムス」夏季特集号)