戦後60回目の夏がめぐってきた。
あのとき、わたしは教科書を墨で塗りつぶす作業に追われていた。国民学校の5年生であった。
縁故疎開して来て一年。
この六甲山の北奥の農村にも米軍機の襲来があったが、それも数日前の“ラジオ”のあとは静かになった。
日本は敗けた、その証しがこの作業であった。
焼け跡の都会に帰って来て一年。
国民学校を卒業すると、校舎も間借りの新制中学生となり、ひねもす「六三制 野球ばかり 強くなり」と過ごす。
そして、高1の5月、朝鮮戦争が勃発した。
そのときの教師の悲壮な声が、未だに耳朶にこだまする。
わずか5年足らずの、平和な日々でしかなかった。
“ほしがりません 勝つまでは!”とひもじさに耐えた、あの日々のことが頭をよぎる。
“NO MORE WAR、NO MORE HIROSHIMA”、学内で反戦の集いが開かれ、わたしは戦没学生追悼の“聞け わだつみの声”のメンバーになる。
追悼・追憶にとどまることなく、この戦争の責任を明確にし、二度と再び中国を含めたアジアの人々と戦わないために、どのように行動するかがわたしの課題となる。
■日中貿易のなかで
1957年、わたしは第2回日本商品展覧会(武漢・広州)の出展準備に追われていた。
社長と社員はわたしひとりの、資本金100万の小商社であったが、「反戦・平和」の実現は日中貿易の拡大を通じて、日中間の経済交流が平等互恵の、不即不離の状況になることにあると信じての選択であった。
翌年5月、「長崎国旗事件」で日中貿易は中断、わたしは数年の無為と失望の日を過ごすことになる。
再開後の友好貿易で「土下座貿易」と揶揄される風潮もあったが、日中国交回復を求める大きな流れのなか、お寺の本堂からスタートした中国物産展が百貨店の一大催事に発展、72年9月の日中国交回復の日を迎えた。
あのとき、クスダマが割れ「慶祝 日中国交正常化実現!」の垂れ幕が下がったとき、会場を埋め尽くしたひとたちと握手を交わし、肩を抱き合って喜びをともにしたのであった。
そのとき、日中貿易は往復でやっと11億ドルを超えたばかりであった。
■盧溝橋で
2000年の秋、わたしは盧溝橋のたもとにある「抗日戦争記念館」にいた。
日中友好協会設立50周年の記念植樹を、緑少ない万里の長城のふもとの村でしてきたばかりであった。
盧溝橋には65年の夏、取引公司にお願いして連れて来てもらったことがある。郊外に出かけるにはまだ旅行証明(許可証)のいる時代で、この記念館のあるあたりは「中国―ルーマニア友好人民公社」と呼ばれる緑豊かな農村であった。
マルコポーロも渡ったという、この大理石の橋の欄干のそこ・ここを指差しながら、地元の幹部は、これがあのときの銃痕、あの先の中洲に駐屯していた中国の軍隊に日本の軍隊が夜襲をかけたのが“事件の発端”と説明する。
わたしは戦前生まれだが、「戦争世代」ではない、どちらかといえば「飢餓世代」に属するが、父や兄の世代の「侵略行為」には忸怩たる思いがある。しかし毛沢東時代の中国は「あなた方も中国人民と同じ戦争の犠牲者、悪いのは1%の軍国主義者」と説く。わたしも日本国民のひとり、この橋のほとりで頭を垂れ、“日中不戦の誓い”を新たにしたのであった。
「抗日戦争記念館」には大勢の小学生が「愛国教育」のため参観に来ていた。
この年頃では無理もないことだが、まるでピクニックに来ているようなもの、「731部隊」の【生体実験】のパノラマ展示の前でおどけ、騒ぎまくっていた。
この愛国教育がいまのように組織化され、強化されたのは94年以降のことである。
89年の天安門事件は“人民解放軍”に鎮圧されたが、その炎は東欧諸国に飛び火し、ベルリンの壁は崩壊、強権政治を誇示していたルーマニアでもチャウシェスク大統領夫妻が
住民に公開銃殺された。
この衝撃的な映像は、瞬く間に全世界を駆け巡る。
事件後、西側諸国は中国に“経済封鎖”を行い、90年からの浦東開発をふくむ中国の本格的開放宣言にも冷ややかな反応を示す。
中国は“経済封鎖の一番弱い環”の対日工作に重点を置き、92年11月の「天皇訪中」を実現する(銭其琛元外相「回顧録」)。
翌93年2月、鄧小平は寒風吹きすさぶ南浦大橋の上から遅々として開発の進まぬ浦東地区を指差し、上海の幹部に檄を飛ばす、改革開放の進軍ラッパが鳴り響いたのであった。
“窓を開ければハエが入ってくる”と語っていた鄧小平であるが、天安門事件後の東欧諸国の崩壊は衝撃的で、「これでは(共産)中国がなくなる」との危機感から「和平演変」対策を講じる。これが「愛国教育」の強化につながるのである。
中国のいまの30代以下の青年たちはこの「愛国教育」を受けている。そしてそれはさらに下の世代に「再生産」され、引き継がれている。
■政冷経熱のいま
「経熱」の実態を数字でおさらいしておこう(日中経済協会資料より分析)。
昨2004年末の日中貿易は、1,680億ドルと中国は日本の対米貿易を超える世界一の貿易相手国となった。5年前の2000年の1.96倍、72年国交回復時の、の実に153倍という驚異的な発展である。
対中投資についても、昨年末累計で契約件数は31,839件、契約金額で665.9億ドルとなり、2000年以降の5年間でそれぞれ59%、53%の伸びである。
わたしの“初一念”、不即不離の日中の経済関係はすでに構築されたといえるが、昨今の不協和音にはすこしアタマに来ている。
半世紀になる中国との付き合いのなかで、“長崎国旗事件”や事業の失敗で中国から遠ざかざるを得ない時期もあったが、文革が終息したあとの70年末に至るまでの2~3年は、中国から足を洗いたいと思う日々であった。
文革の初期は健康を害して、日本で主にキャッチャーをしていたので紅衛兵たちの活躍する場面にはあまり出くわせていない。わずかに広東の交易会会場で商談員の傍らにかれらがたむろしていた光景は浮かんでくるが、話に聞く商談前に「毛沢東語録」を唱和した経験はない。
国交回復した直後の70年代の中葉、北京や上海の商談でも公司の担当者とは安い、高いとネゴしあい、納期遅れや品質クレームで大立ち回りをしたことはあるが、生産現場やユーザーの許へ行くことができず「文革」の影響を肌身で感じることはなかった。
4人組が逮捕され、はじめて生産現場に足を踏み入れてその荒廃ぶりに唖然とした。
機械は回っていても従業員は職場の隅で車座になってタバコをくゆらし、騒いでいる。
オシャカの製品が山積みになっても我関せず、ノルマの数量は達成しているとうそぶく。
工場長に詰問すると、従業員が四人組のせいでアナーキーになり、仕事をまじめにしないと嘆く。わたしは頭にきて、江青がここに来て、日本向け輸出商品は不良品ばかり作れ、納期を遅らせ!と指示したのか、従業員を管理できないのはあなたの頭にある“思想”ではないか、あなたに工場長としての管理能力がないからではないか、とどやしつけた。
一事が万事、出来ないのは「四人組」、悪いのも「四人組」とあっては、中国からアシを洗いたくなるのも無理はなかろう。
「政冷」はあたりまえ、「経冷」の日中貿易を少しでも増やしたいとがんばっているのにこのザマはいったいなんだ。
そのようなとき、青島から上海行きの寝台車で偶然同室になった高齢の地質学者との出会いがあった。
下手な英語と中国語で、差しつ差されつ杯を酌み交わしていたとき、かれは突然カーテンを開き、暗闇を指差しながら声を上げて泣き出した。この無灯火の僻村にも農民たちが住んでいる。毛沢東や周恩来、鄧小平もみな思いは同じ、この貧しい人たちを豊かにしたい、救いたいとがんばったと思う。わたしは、周恩来の要請で家内と留学先から帰国、油田の開発に取り組んできたが、文革で捕らえられ、“労改”で数年。名誉回復して元の職場に戻ると部下や教え子は追放されて行方不明だ。これから上海で外国との海底油田開発の打ち合わせに行くのだが、わたしはもう年、いまから後継者を育てる時間がない、文革で奪われた時間を、部下たちを返してほしい!!
わたしがいまも中国とつき合っているのはこの老学者の涙のおかげである。
■ある合弁企業で
80年代のなかばから合弁企業を、いまでは4社も経営している社長から聞いた話である。
どうして中国人は対不起(トイプチ)といわないのだろうか、すみません、ソーリーと言えばすむものを、ああだ、こうだ、と言い訳をする。仕事上の注意なのだから、指摘された過ちを素直に認めればすむものを、言い訳の種を探し回り、挙句の果てには辞めればいいんでしょう、と開き直る。別に人格を否定したのではない。仕事のやり方がルールに、就業規則にのっとっていないから注意したのだが、逆に就業規則のどこに抵触するのかと食い下がるものもいる。困ったものですよ、とのことであった。
昨今の日中関係のやりとりにも幾分通じるところもあるが、政治の世界の話は専門家にお任せしておこう。
わたしがなぜ日中貿易の拡大が“日中不再戦”につがる、と考えたのかをお話したい。
それは等身大の交流、素顔の交流につながるからである。
昨年末までの日本の中国への投資案件がすべて開業して、平均200人の従業員を採用した場合、現地日系企業の従業員は600万人を超える。その従業員の家庭が3人家族であれば2,000万人近い人が日系企業とかかわりがあり、その友人が・・・と考えればその数はさらに広がる。
世界の企業の対中投資を同じように考えると、直接雇用従業員は1億、家族は3億人を超える。いまの中国で外資企業とのかかわりを抜きには考えられない雇用状況がすでにあり、世界のブランドのほとんどがメイドインチャイナであることを考えれば「日貨排斥」は現実に即さない。
日系企業の現地責任者はこのことに留意され、日常の経営のなかで中国人従業員と素顔の交流と忌憚のない対話を通じ、「等身大」の日本、戦後60年の日本の歴史を、多くの日本人の考え方を、中国の人たちにわかるよう「草の根」の日中友好に取り組んでいただきたいと切望する。
当然のことながら、中国の歴史もよく学び「7・7」や「9・18」などの抗日記念日に新車発表会やセ-ルスキャンペーンをやる愚は避けていただきたい。
昨今の政治家たちのののしりあいにはいいかげんうんざりするが、大局を見失うことなく老骨に鞭打って「日中不再戦」・「日中友好」の旗を掲げて進みたい、と思う昨今である。
(2005年6月10日)