メインパソコンの復旧作業中の時間を生かして、サブ電脳を使って華僑華人関連文献を調べてみた。思いがけず、約10年前に書いた短い報告がネットに掲載されているのを見つけた。早速「旧聞新録」欄を作って、資料として保存しておく。
「メディアの場面から見る在住外国人の世界形成力」国際文化都市ヨコハマの再生に関する調査報告書の一部分である。
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2-4. メディアの場面から見る在住外国人の世界形成力
段 躍中
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ここではいわゆるエスニック・メディアの形成に焦点をあわせて、在住外国人の世界形成及びビジネス形成の現状と地域社会の条件について見ていきたい。
1. 横浜におけるエスニック・メディアの現状
外国人によるメディア、外国人向けのメディア、外国語で書かれたメディアはエスニック・メディア、エスニック・ミニコミと呼ばれている。こういったメディア、あるいはミニコミは、公的機関、ボランティア団体、在住外国人によるものをあわせると、横浜市内では少なくとも11誌紙が刊行されている。ちなみに「ヨークピア」(1996年 3・4 月 号)に紹介されたものだけでも、「Naka Ward Town News」「yokohama echo」「こんに ちはかながわ」「KAWARABAN」「たまてばこ」「国際交流ほどがや」「横浜華僑通訊」「匠jang」「PALあじあ」「YOKOHAMA Day& Night」のほか、後に詳しく紹介する「亜洲 新聞」などがある。
ところで、この11誌紙を使用言語の種類から分類する(複数計算)と、日本語の紙面を設けているのは9誌紙(そのうち完全に日本語によるものは2誌)で、英語の紙面を設けているのは7誌紙(そのうち完全に英語で書かれたものは2誌)、中国語の紙面を設けているものは5誌紙であり、ほかはスペイン語3誌、ハングル語とポルトガル語が各2誌となっている。主体は日本語で、外国語のものはまだ少なく、言語の種類も5種類に限られている。
ちなみに創刊年から見ると、70年代に創刊されたものは3誌紙(「亜洲新聞」は1971年に創刊されている) で現存のメディアの中では、一番古い。「横浜華僑通訊」は1973年、「yokohama echo」は1976年である)、80年代に創刊されたものは1誌(「KAWARABAN 」 1987年)、ほかの7誌紙はすべて90年代に創刊されたものである(91年2紙、92年2紙、 93年1紙、94年2紙)。これは、横浜市における在住外国人の増加が90年代に入ってから急になったことを反映しているとも言える。また、発行元から見ると、公的機関が発信するものが11誌紙の中に6誌紙、外国人が出しているものが4誌紙、民間出版会社が出しているものが1紙である。これは外国人向けのメディアが多く占めていることを反映している。ただし、外国人自らが発行しているものは比較的少ない。
2.エスニック・メディアの社会的機能
エスニック・メディア論の第一人者である白水繁彦氏(武蔵大学教授)は、エスニック・メディアの社会的機能について「集団内的機能」「集団間的機能」「社会安定機能」を挙げている(1)。上述した11種類のエスニックメディアも、基本的にはこうした機能をある程度は満たしている。ただ6割以上のメディアが91年以後に創刊されており、果たしている社会的機能もメディアによって様々であるのが現状である。
エスニック・メディアの社会的機能として、「外国人の、日本、横浜への適応のために」という目的は、各メディアの共通したところである。さらに、公的機関によるものは、行政広報の外国語版としての性格を持つが、在住外国人に及ぼす結果を考えるなら、基本的にはこういった役割を果たしている。
例えば在住外国人向けに「横浜市中区役所広報相談係」が編集する「Naka Ward Town News」(隔月刊行、発行4,000 部、英語)は、「広報よこはまより抽出した記事・横浜市各局、各区役所及び国際交流団体などの外国人向け情報・企画記事など」を紙面内容としている。また、(財)横浜市海外交流協会が編集する「yokohama echo」(月刊、発行 6,000 部、英語)は、横浜の文化、経済、社会に関連したニュースを載せるほか、市役所からの行政サービスに関するお知らせ、その他暮らしに役立つ情報なども掲載している。ほかの国際交流団体による「KAWARABAN」(横浜国際交流ラウンジ情報コーナー)、「たまてばこ」(横浜市青葉国際交流ラウンジ情報部会)、「国際交流ほどがや」(保土ケ谷区国際交流の会)もこういった役割を果たしている。
これに比べて、在住外国人によるエスニック・メディアの大半は、「自分のアイデンティティを保つために」という目的をもって発刊されている。例えば、横浜華僑総会文化部が編集する「横浜華僑通訊」(月刊、2,000 部、日本語・1ページ分は中国語)は、華僑社会のニュース、中国に関する重要なニュース、中日関係のニュースを紙面構成としている。在日本大韓民国青年会神奈川県本部が編集する「PALあじあ」(年4回、3,000 部、日本語)は、韓国関係の特集記事、在日本大韓民国青年会の活動、生活情報を紙面構成としている。
3. 事例: 「亜洲新聞」にみるネットワーク形成とビジネスの機能
横浜市内に発行元のあるエスニック・メディアを、100%把握することは難しいが、25年の歴史を持つ「亜洲新聞」の存在が、ほとんど知られていないことは、驚くべき事実である。
(財)横浜市海外交流協会のある「産業貿易センタービル」から歩いて5分くらい所に、横書きの大きな看板がかけられている「亜洲新聞社」がある。わずか10メートルくらい手前にある店の従業員に「亜洲新聞」の所在を聞いてみたが、全然知らない。23年前に国会図書館で「亜洲新聞」を見つけたことは絶対間違ってないし、また一度電話で確認したこともある。筆者は、この新聞社にインタビューするため、十数回の連絡を取ってみたが、いつも留守番電話だった。ある日、横浜に来た折、「亜洲新聞」社へ飛び込んでみた。幸い社長の許至誠氏に出会えた。
ここで「亜洲新聞」の歴史を振り返ってみよう。
1996年3月25日の終刊号で 349号を発行した「亜洲新聞」は、25年間の歴史を持つ(終刊号はブランケット版4ページ)。横浜現存のエスニック・メディアの中でも最も古いこの新聞の歴史は、次の4段階に分けることができる。1971年10月10日からの「復興新聞」の段階、1980年からの「亜東新聞」の段階、1986年6月17日からの「東京商報」の段階、そして1989年からの「亜洲新聞」の段階である。
「亜洲新聞」は、本社を横浜に置き、台湾、シンガポール、マレーシア、韓国、香港などに支社を持つ。総発行部数は公称32,000部(内訳日本の読者は約6,000 人、横浜の読者 は約400 人)、基本的に「週刊」を主体とする中国語新聞であるが、日刊新聞(「東京商報」段階)として4カ月間発行したこともある。ただ、最近は月刊新聞である。
創刊の目的及び趣旨として次の表現がある。「『亜洲新聞』の創刊は、長い願いである。華僑と華僑、華僑と国家の懸け橋になり、共に新しい時代を迎えることは創刊の目的である。中国は長い間分裂している、同胞たちは平和かつ幸せな生活を望んでいる。本紙は両岸統一の『促進剤』になりたく、大陸と台湾の交流に役に立ちたい。紙面内容としては在日華僑団体のニュースや経済貿易の情報、自然観光旅行情報、柔らかくおもしろい記事を取り上げたい。」。
また創刊21年目の社説に次の表現がある。「1971年10月10日創刊された『復興新聞』から、我が新聞の名称が4回変わって、時代と共に歩んで来た。21年間、私たちスタッフが創刊の趣旨を堅持し、華僑に情報を提供すること、中華文化を高揚すること、海外中国人の結束を促進することに力を尽くして来た」。
台湾系の新聞である「亜洲新聞」のトップニュースは、ほとんど台湾政治、経済を中心としている。無論、台湾総統李登輝に関する報道は少なくない。日本では第三種郵便物登録になっていないけれども、台湾では正式登録番号が与えられている(中華民国行政院僑務委員会第705 号など三つ登録番号を持つ)。
社長許至誠氏個人の履歴についてもひとこと述べておかなければならない。
今年73歳の許氏は14歳のとき故郷を離れ、海外生活をし始めた。日本での滞在は今年でちょうど40年になる。
許氏は、多くの肩書を持っている。中国語の著書『孔子思想と現代社会探索』(亜洲新聞社出版、中国文物館有限会社発行、1994年)には次のような紹介がある。すなわち「原籍」は中国山東省栄成市馬嶺許家村で、学歴欄には、華南大学経済係とある。同大学卒業の後は、日本近畿大学大学院商学科修士学位を取得したほか、三つの博士学位をもらっている(米国の経済学博士、華南大学経済学博士、東京特許大学新聞学博士)。そして経歴においては、台湾大学の職員を皮切りに、台湾公論報サイゴン特派員、中国日報アメリカワシントン特派員まで、出版社の社長、新聞編集長などを務めた。
現在日本における仕事としては、至誠、恵豊二つの株式会社、中国文物館有限会社の取締役社長、「亜洲新聞」社発行人兼社長、神奈川県山東同郷会理事長、東京特許大学総長を務めるほか、亜洲孔子基金会董事長、亜洲孔子学会副会長兼執行秘書長、中華平和統一大同盟副主席をも務めている。
ちなみに、許氏は日本に帰化し、新潟出身の日本人の妻を持つ。一年の半分以上の時間は日本以外で過ごす。台湾の政界、経済界に強い人脈を持つほか、中国大陸の上層との付き合いは結構ある。
許氏の新しいスタートは「環球電子日報」(Global Electronic Chinese Daily News)である。それは、アメリカ(ニューヨーク・シカゴ)の中国語新聞3カ所、台湾(台北・高雄)の中国語新聞3カ所、香港、オーストラリア、ブラジル、タイ、東京など国家と地域の中国語新聞12紙をグループとして、毎日毎日インターネットを通して発信する。「亜洲新聞」もその中のメンバーとして入った。
「環球電子日報」は、毎日ブランケット判サイズ4ページの記事量で、第1面は「国際重要ニュース」、第2面は「世界之最」(世界一)、第3面は「副刊」(文芸・学芸のページ)、第4面は「環球通信」。これら内容は政治には全然触れないため、どこでも出版することもできるという。
この「環球電子日報」の特徴としては、ニュースの伝達が24時間体制、発信受信が随時かつ迅速になった。コストが大幅に押さえられ、活字の新聞に印刷することもとても簡単で、現地のニュースや広告を入れ替えたらすぐ日刊新聞ができるとのことである。
4.おわりに
特に外国人による日本語メディアの発行ブームは横浜の国際化にどういう意味を持っているのか。
在住外国人の二世、三世はほとんど母国語を喋れず、母国語メディアより日本語メディアの方が親しみやすい。例えば、本稿で主な対象としてきたのは在住の中国系の人々がつくるメディアの問題であったが、同様に、在住の韓国・朝鮮人のメディアに目を向けてみても同じようなことが言える。ちなみに在日韓国人メディアである「PALあじあ」編集者の話によると、その読者の多くは日本で生まれ日本で育ち、本国指向より日本指向、定住指向が多いという。実際、三世の在日韓国人たちは韓国語は全然喋れない人が多いという。 だが、それが中国系の人々であれ、韓国・朝鮮系の人々であれ、またそれ以外の人々であれ、同時に彼らは、祖国に対する思いや関心も深く、自分たちのアイデンティティを確立するという意味でも、また自分たちのビジネス世界を形成するという意味でも、外国人自身によるメディアの役割は大きい。実際、「ビジネスとしてやるなら日本語の新聞しか売れない」と彼らはいう。ここには、そうしたビジネスによって自らの世界を形成しようとする新しい芽が生まれている。
ところでビジネスとしてのその役割はまた、情報の発信地としての横浜の役割をさらに高めるということにも最後に触れておきたい。「亜洲新聞」発行人兼社長の許氏の場合を見ても、横浜は国境を越えたその活動の一つの拠点ともなっている。行動力のある彼は一年の半分は日本以外で過ごす、日本に居てもよく東京で仕事をする。2台の携帯電話を携帯していても、なかなか捕まえられないほど忙しい。外国人あるいは帰化した元外国人、外国人の二世たちは、横浜から世界へ飛び出す。
横浜は古くから国際的な港湾都市として知られてきた。その歴史をいかに生かし、新しい時代において、もっと輝き、もっと魅力的になる都市にするために筆者は、在住外国人の人的資源の開発が必要だと思われる。3月末現在46,723名の外国人住民が住んでいるこの港湾都市横浜は、 エスニック・メディアを一つの手段として、国境を越える人々の拠点として発展する可能性は大きい(2)。
(1). 白水繁彦「エスニック・メディアの現在」白水繁彦編『エスニック・メディア--多文化社会日本をめざして--』明石書店.1996 年. [本文へ戻る]
(2). 特に日本における中国系メディアの現状については、本稿の他に、段躍中「政論新聞から生活情報紙、総合紙へ--中国メディアの変遷--」白水繁彦編『前掲書』明石書店、1996年、を参照.
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